2012年4月25日水曜日

【飲食の戦士たち】in-職hyper(いんしょくハイパー)特別コラム 第271回 株式会社銀座ルノアール 代表取締役社長 小宮山文男氏


お煎餅屋に次男、誕生。

小宮山文男が生まれたのは1949年の東京都中野。両親は小さな煎餅店を営んでいた。
「戦後、父は煎餅店を営み生計を立てていました。もともとは東京の蒲田で開業したらしいのですが、私が生まれる頃には中野に引っ越しています。店があったのは、現在の中野ブロードウェイ前です」と小宮山はなつかしげに眼を細める。
「母はとにかく働き者で、39℃の熱があっても店に立っているような人でした。もともと農家の次女で体力もあったし、気まじめだったのでしょう。その一方で、父は、ハイカラな人でした。ダンスが好きで、店が苦しい時でもダンスを習いに行っていたそうです。とにかく自分中心。一家の独裁者です(笑)」。
ダンスはともかくとして、煎餅店を切り盛りするのはたいへんだった。いったん焼け野原となった東京が、急速に都市化していくなかで煎餅店を営むというのは、いまとはまた違った苦労があったに違いない。両親が仕事に専念できるように、小宮山たちは父母が寝起きする店から少し離れた一軒家で祖母との暮らしを強いられていた。寂しくなかったですか? と尋ねると、「小学1年生の時から店番をしていたから」という返事。父母の仕事ぶりは小宮山の原風景の一つになっている。

小学6年生の脱走。

「父母が忙しいものですから、私たち兄弟は、祖母に預けられました。兄弟は、ふたつ上の兄1人なんですが、従兄弟たちも一緒に住んでいましたので、ぜんぶで5人です。こちらはこちらでたいへんだったと思います。私のようなやんちゃ坊主もいたわけですから(笑)」。
明治生まれの祖母は厳格な人だった。「やんちゃをしては、叱られた」という。ただ、祖母のおかげだろう。小宮山は、やんちゃはするが人一倍、正義感の強い少年に育つことになる。だが、当時は、まだ少年。ありがたみが分かる年齢ではない。祖母の躾の厳しさに耐えられなくなった時がある。従兄弟を含め、5人。いちばん年下の小宮山はいつも、劣勢に立たされた。それも心の負担になった。
それで、脱走した。小学6年生の時。
「親戚の家に逃げ込んだんです」。よほど居心地が良かったのだろう。1年間、生活したうえに、中学2年の時にも、ふたたび駆け込んでいる。


天気は、通常、アイルランドで何が似ている

自衛隊、入隊の計画はやむなく頓挫する。

「昔の家は長男がいちばんです。兄が、体が弱かったこともあるのでしょうが、両親からも兄を守るように言い聞かされていました。私はその言いつけを守り、兄が苛められていると聞けば相手がだれであろうと向かっていきました」。
ヤクザとも闘った、そんな武勇伝も持つ。それはともかく兄を助ける指令を与えられるあたり、当時の長男と次男の関係が良く表れている。次男はあくまで、次男に過ぎない。長男と次男に対する期待度の違いが平然と親の口から語られていた時代でもあった。
中・高と私立で学んだ小宮山は、東海大学に進み、空手部に入部する。
小・中と柔道を習い、大学では空手。硬派ないちめんを伺わせる話だが、兄と同様、体はけっして強いほうではなかった。空手部に入部しようと思ったのも、本格的に体を鍛えるため、と語っている。余談だが、大学1年の時には、休学して自衛隊に入隊しようと試みた。こちらは、学校の許可が下りず、やむなく計画は頓挫する。


平原インディアンはどこに住んでいました

沖縄、グアム、ヨーロッパ。まだ本命のアメリカ本土には行けず。

小宮山が大学1年といえば、1967年、オリンピックが開催されて3年後。日本の復興を象徴するイベントを無事終えたものの、まだまだ日本は敗戦国であり、海外との間には大きな格差があった。
当時のドル/円を例に挙げれば分かりやすい。1ドル、360円。現在のドル/円を80円としても4倍強。海外旅行がままならなかったのも頷ける。しかし、そのなかでも何人かの先達は海外を志向する。小宮山もまたそんな一人だった。
「将来の進路を考えた時、アメリカに行ってみたいな、と思うようになったんです」。海外はまだ遠い。だが、思い立つと、エネルギーの制御は困難なタイプ。大学3年の時、まだ返還されていない沖縄に飛んだ。
「大学3年生になると、ようやく人間になれるんです(笑)」。部の話である。1、2年時に比べ、比較的自由になった。ちなみに4年ともなれば雲上人になる。雲上人になった4年時には、一心不乱に練習に励む後輩たちを残し、「福祉社会と経済」という卒論テーマを追いかけるため、今度はヨーロッパに旅立っている。
「沖縄のつぎに、一度グアムにも行っています。今度は、ヨーロッパです。1ヵ月かけ北欧からフランス、イギリス、ドイツなどを回りました。まだまだヨーロッパも貧困な時代でした。ベルリンの壁は高くそびえていました」。
当時の西欧の様子はよく分からない。ただ言えることは、日本の大学生が気軽に一人旅を楽しむ状況ではなかったということだ。ただし、日本人のなかに溜まった海外への憧れやエネルギーといったものの、そのいくつかの滴が、大海に向け漏れ出していたのは事実だろう。
そんな旅の最中、ドイツでのこと。立ち飲みのコーヒーショップでコーヒーを奢ってもらったことが印象に残っている、と小宮山はいう。
ちなみに、この店は、ドイツでは有名な「TCHIBO チボー」というチェーン店で、のちに日本にも進出する。また、小宮山はのちに、新業態として立ち飲みコーヒーショップを立ち上げるのだが、その際のヒントにもなっているそうだ。


ブルゴス人にちなんで命名されますか?

実家に就職するも、1年で、逃亡。

さて、無事、論文を書き終え、卒業した小宮山は、家業の煎餅店に就職する。就職というより感覚としては、「戻る」と表現したほうが正しいだろう。だが1年しか続かなかった。
「1年で、もういいだろうって、逃亡してしまうんです(笑)」。
今度は、いよいよアメリカ本土、ロサンゼルスに旅立った。念願叶える旅の始まり。
「ロスには日本人の町があって、そこで、いろんな情報をもらって。住むところがないので、住み込みの女中のような仕事していました。真夜中、ご主人たちが寝静まってから、今度はデニーズで働きました。向こうは週給ですからね。1週間、働くとお金になるんです。大型のスーパーとか、レストランとか、ドラッグストアとか、いろいろな形態の店をみました。いずれ日本に来る業態ですが、実際に見た人間とそうでない人間の差はありますよ。それだけでも財産になった気がします」。
まだ日本人がジャップと揶揄された時代でもある。
車に乗っていて囲まれたこともあった。向こうは女性ばかり。だが、体格が違う。一目散に逃げ出した。空手部で鍛え上げた体だったが、まだ西洋人には向かっていけないぐらいの体格差があったのだろうか。

駆け落ちするか、小宮山はささやいた。

実体験を踏まえた小宮山の話はおもしろい。戦後の黎明期に一人の青年が、憧れのアメリカで半年間といえども自活する。そんな様子を想像するだけで、不思議と勇気がわいてくる。
ところで、アメリカ帰りの青年を待っていたのは、もう一つの大きな壁だった。半年前、小宮山に「行ってらっしゃい」と語りかけた女性との物語りの続きである。
一人娘の女性との結婚は、今よりむろん障壁が高い。小宮山の彼女は、代々続く本家の長女だったから尚更だ。婿入りを主張されては小宮山もためらわないわけにはいかなかった。両方の両親が反対。その状況をまえに、小宮山はまたまた逃亡を考えた。「2人で駆け落ちするか」。
しかし、この時はさすがに親が折れ、めでたくゴールインを果たす。しかし、これでめでたくハッピーエンドとはいかない。小宮山の頭に「安泰」の2文字はない。


3畳一間の新婚生活。

無事、結婚した小宮山は、結婚早々、新妻を連れて大阪行きの列車に乗った。 「嫁さんと2人して大阪に向かいました。商売の勉強をしようと思ったんです。1ヵ月アートコーヒーさんが運営するお店で仕事をして、それからいろいろな店で仕事をしました」。
あてがあるわけではない。もちろん金もない。仕事が決まっているわけでもなかった。「昔は文化住宅っていうのがありましてね。もっとも何が文化かわからないんですが、3畳にキッチンがくっついているような粗末な家です。そこで嫁さんと暮らしました。長男が生まれたのも、その時です」。
夫を慕って、何の不平もいわずに寄り添う健気な奥様が、話の端々から姿を現す。「あの時は牛肉の100グラムを買えずに、50グラムにしてもらって買っていたのよ」と当時のことを思い浮かべ、いまでも笑われるそうだ。いまとなっては、2人とって大事な思い出の一つに違いない。この生活は3年続いた。小宮山が3年間、動かなかったからだ。


石の上にも、3年、4年。可笑しくて、笑った。

ここで話をひとつ整理しておく。銀座ルノアールの創業者は、小宮山の父、小宮山 正九郎氏である。
簡単に年表で追うと1964年10月、日本橋に第1号店を開店。1971年2月、有限会社銀座ルノアールを設立。1979年5月、株式会社銀座ルノアールに組織変更。1983年には、100店舗の出店を達成とういことになる。
小宮山が大阪から舞い戻ったのは、1975年。店舗数はまだ数十店に過ぎなかったようだ。この時、父、正九郎氏から与えられたミッションは「炉端焼き居酒屋」の出店だった。むろん、経験はない。「仕入ひとつ分からない」という小宮山に、正九郎氏は、修業に行け、と一言。「オープンしたのは、大崎で、当時は工場地帯です。山手線に乗っている人は誰も降りないような駅です。この街の一角に銀座ルノアールがあって、その地下が空いたんです。100坪の大箱でした(笑)」。
修業期間は2ヵ月、付焼き刃に過ぎない。
立地も、最悪。規模も手ごろとはいえない。しかも、料理人を雇うのも初めての経験。
「へそを曲げられ、明日から来ないからって言われたら、おわり。だから、なだめすかして、ご機嫌をとって…」。
それでも店の売り上げが順調なら、救われた。しかし、3年経っても赤字。給料もろくにとれない。それどころか料理人の前借分は、自分の財布から出さないといけなかった。4人の母親となった奥様も、洗い場に立った。
「3年経っても赤字だったものですから、辞めようという話もでたんですが、石の上にも3年だろう、なら4年やろうと。あと1年続けるんです」。
我を張ってみたが、辛くて涙がでることもあった。
「将来が不安で、もう涙どころか、頭までどうかしちゃったんでしょう。おかしくもないのに、笑えてくるんです」。
ある経営者にも聞いたことがある。人間、最後には笑ってしまうのだと。考えてみれば、初の店舗経営は、さんざんな試練を小宮山に与えることになる。その時、何がエネルギーになったのか、とたずねた。すると、「生きていくだけで精いっぱいだった」という答えが返ってきた。その言葉が何より当時の様子を物語っているように思う。


お前の仕事はないよ、救いを求めた息子への一言。

「親父のところで、雇ってくれ」。小宮山は頭を下げたが、返ってきたのは、「お前がする仕事なんてないよ」というつれない返事だった。
「父親がいうのも当然なんです。長男もいましたし、従兄弟も入社していたものですから。でも、結局、監査役にしてもらうんです」。
ただ、これも苦労の始まりだった。当時の監査役は何もしない。代わりに権限もない。タダ飯食いといういわれのない批判も、受けた。
「それが悔しくて。なんとか給料分は、ねん出してやろうと思うんです。当時は、携帯電話なんかありませんから、お店には電話が一台、置いてあるんです。そこに広告のコーナーを設け、広告代理店に貸したりして、なんとか給料分は出るようにします。その一方で、店舗やメニュー開発をさせてくれって親父に直訴して、こちらでも少しずつ成果を上げていきました」。
700円のパフェを開発した。30坪の店で月商700万円を叩き出す。紅茶専門店も開発した。いちばん大きな成果を挙げるなら、立ち飲みコーヒーショップの開発だろう。
ただ、何をするにしても、なかなかOKがでなかった。
「私がいうのは、頭からダメ。昔、ドイツで向こうの人に奢ってもらったコーヒーの味が忘れられなくって提案したんですが、まったく相手にしてもらえません。それでもプロジェクトチームをつくって準備を整えました。喫茶店の王道を行くと頑なに首を縦に振らなかった親父も根負けしたんでしょう。売上が上がらない店があって、そこならいい、ということになったんです」。
ところが、その店がいきなり4倍の売上を叩き出す。乾坤一擲である。
すでにこの時、銀座ルノアールは、株式を公開している。だが、一斉を風靡した名店にもバブル期を頂点に、陰りが差し始めていた。
それから、どれだけ経っただろう。2002年、小宮山は、株式公開企業である銀座ルノアールの代表取締役に就任する。
ただ、就任時の業績はきびしく、「古くなった店舗と長年勤めた従業員、長年通い続けてくれた年配のお客様ばかりの店だった」という。祭りのあとの、後片付け。そう映ったかもしれない。ともかく「銀座ルノアール」がかがやいていた時代はたしかに終焉を迎えていた。


もう一度、「銀座ルノアール」という名店をつくる戦いの始まり。

小宮山は就任時から積極的に動いた。ある程度の時間はかかったが、98%の店をなんらかのかたちで改装するに至る。100店舗近い店をすべて変えていけるのは、剛腕ならでは、だ。無線LANサービス、ノートパソコンや携帯電話充電のための電源も開放。貸し会議室を「マイスペース」として都内店舗に設置しビジネスユーズに対応するなど、銀座ルノアールは、ゆったり感を残しつつも、様変わりしている。
一見、華やかな変貌だが、変革をリードする小宮山には、相当の覚悟が伴ったのではないか。古い物を壊すのは、新しい者の責任とはいえ、勇気と覚悟がいるものだからだ。
幸いにも、勇気と覚悟の根底に流れる自信を、小宮山はいままでの人生で十二分に培ってきた気がする。
「けっこう刺激的な人生でした」と、小宮山は振り返る。だが、まだまだ振り返るには早すぎる。「銀座ルノアール」という名店の終わりと始まり。新たな始まりの幕は、まだ切って落とされたばかりだ。



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