2012年4月24日火曜日

マーシャル・鈴木総合法律グループ:「び~む」連載


先月、「その1」で、「忙しい」ということを強調しすぎたことを後悔しています。 考えてみれば忙しいことが当たり前の仕事ですからね。 顧問先や色々な方から「お忙しいところ済みませんね」とのコメント。 もう忙しいということを書くのはやめましょう。
 それから、なんで、「呑んでソウロウ」なんだというコメントいただきました。 「鈴木は酒を飲んでからでないと、原稿書かないんだろう」と思われているのですかね。 残念でした。 皆さんもそうでしょうが、日々仕事をしていると、あらゆるところで目に見えない拘束があり、ゴクリと自分のエゴを抑えなくてはならないことがたくさんあるからなのです。 結果、「呑んでソウロウ」。 それはさておき。
 弁護士の醍醐味は毎日ではないですけれど、やはりお金では買えない感動を味わうことができることでしょう。 たくさんの人に接して、様々な意見を聞くことにも感動はありますし、事件を解決してすっとする感動もあります。 色々な感動がある中で、やはりクライアントの方と感動を共にすることほど嬉しいことはありません。 例えば先日も、二年ほど前に刑事弁護を手掛けた事件の元被告人の方がわざわざ遠方よりお電話を下さって、元気にやっていることを伝えてくれました。 その人の明るい声を聞いたのははじめてでした。 辛かった時間を一緒に乗り越えた感動がそこにはありました。 今日は、そういった私の最近の感動のなかから一つ。
 訳あって、年に3,4件ほどボランティアの法律相談所から私のところに事件が回ってきます。 これらの事件は一見平凡な事件に見えるのですが、当事者にとっては、生活がかかっている事件であることが殆どです。 なぜかというと、ボランティアの法律相談所が受け付ける事件は、低所得者だけが対象なので、一ドル一セントで家庭の経済のバランスが崩れてしまうような事例が持ちこまれてくるのです。 また機会があったら、このボランティアの法律相談所の影で働く人々のことは書いてみたいものです。 この人たちには、私に勇気をくれる本当の法律家の姿があります。 
 最近、私がバタバタ仕事をして事務所を出たり入ったりしているとき、このボランティアの相談所から連絡が入り、事件の委任の要請がありました。 相談所内で解決できない事例はもう相手方に弁護士がついて裁判が起こされ、こちらにも弁護士がついて闘わなくてはいけない事例という場合が大多数ですから、私としても受任する際に細心の注意を払うわけです。 入ってきたファックスを良く読みました。
 事件は、原告である大家からの立ち退き請求を受けた借主を弁護せよという内容でした。 大家はアパートを何軒も持つ大金持ち。 私のクライアントとなる借主は二人の子供を抱える女性。 それも、子供の一人が小児麻痺で一生車椅子で生活を送らなくてはならない状態でした。 内容を吟味して、事件を受任することにし、クライアントの方にすぐにでも、事務所に来てもらうように指示しました。 私がこのファックスを受け取ってから、次の法廷まで準備期間は3日間。 一刻も早くクライアントに会って事情を聞くことは何よりですが、当面の課題として3日後、裁判所に出廷すると、事件が陪審裁判になるかならないかの瀬戸際ですから、法律的に私のクライアントがとにかくそのアパートに居続ける事ができるように� �るのが私の最大の課題でした。とにかくごはんを食べている時間でも、コーヒーを飲んでいる時間でも構わず、書類を読み、法律論を組み立てていきました。 書面を読むと疑問が生じます。とにかく、クライアントと話がしたい、そう思ってコンタクトを続けて、受任の翌日面談することができました。 法廷まであと二日です。
 私の所に面談に来た黒人女性は非常に穏やかで、なおかつ説得性のある証拠をたくさん持参してくれました。 訴えられていた原因は、大家側が家賃を払っていないと主張しているのですが、この女性、大家と以前一回トラブルがあってからは、銀行振出の小切手で支払っていたのです。 賃貸借に関する法律では、一回でも家賃を払うのを遅れてしまうと、立ち退きの訴訟を起こされる可能性がありますから、このケースも二ヶ月分家賃を受け取ってないと大家が主張し、裁判を起こされたのです。 それにしても、こちら側では払いましたという証拠を提出できる準備があり、私自身も払った事実に間違いはないと確信していましたので、何故そこまで、大家が立ち退きを迫るのかその裁判を起こす心理の裏側に興味を持ちました� � この女性に質問をさせてもらううちに、ある一つの事に気がつきました。 このアパートの更新時期が毎年この時期なのです。 不動産の値段が右肩上がりのこの時期、うまく追い出させれば、家賃を値上げできる、そう思う大家がいてもおかしくないですよね。 過去にも、同じような時期に、そういう類の「脅迫」があったそうです。 相手の意思さえ読めれば、ばば抜きのばばがどのカードなのか分かったようなものですから、私の法廷準備の用意もグンとはかどりました。
 出廷の日、クライアントの女性は非常に緊張している様子でした。 なんとか、結果が不安定な陪審裁判に臨む前に、ほっとさせてあげたいと思って、相手の弁護士と裁判官を交え交渉を進めていきました。 交渉といっても、私の側は、絶対出ていかない、相手は絶対出ていけ、という主張ですから、平行線のまま時間は過ぎていきます。 クライアントにも疲れが見え始め、ため息が多くなってきました。 勝算のある裁判であると見た私は、話し合いも時間切れという時に、車椅子に乗ったクライアントの息子さんを連れてきました。 それまで温存していた事実だったのですが、小児麻痺の子供を一生懸命育てているシングルマザーという姿を強調したのです。 相手の弁護士は車椅子を押してくる私のクライアントを見て、� �瞬たじろいだ様子でした。 その時、私はお金の計算のみを念頭においていた相手方が、自分で雇った弁護士に、こちらの家族がどの様に暮らしているかの説明をあまりしていなかった様に見えたのです。 「この家族がどういう思いをして、どのように暮らしているのか、陪審員の皆さんにも見て聞いてもらいましょう。」 
 すっ飛んでクライアントである大家と話をしてきた相手方の弁護士は、こちらの言い分を呑んで、訴訟を全面的に取り下げました。 勝利です。 それでも私のクライアントは憮然としたまま法廷でこう言いました。 「私は、道徳に外れたこと決してしていません。 子供を守るために。」 それだけいって法廷を出て行きました。 私は色々な書類を相手の弁護士と整え少し遅れて法廷を出ました。 裁判所の外で私を待っていてくれたクライアントは一転して目に涙を浮かべ、もし追い出されたら、今の住宅事情ではどのようになっていたかわからないとほっとしていました。 クライアントと抱擁しつつ私も目頭が熱くなってきました。
 彼女いわく「ボランティアの法律相談所に出す、弁護士の評価アンケートにはAプラスと書いてあげるからね。」
 私いわく「Cマイナスと書いたら訴えるからね。」
 二人で大笑いして、別れを告げました。 お互いもう会う事もないのでしょうか。 彼女の笑った白い歯が、雲一つない空に良く映えていました。


どのくらいの社長が提供することができます。

みなさん、こんにちはお元気ですか。 私は出張で日本に行ったり、走り回っています。それにしても、時が経つのは早いですね。 もう年末が至近距離になってきました。私は今年はよく仕事をして、焦りというよりかは充実感の方が大きいですかね。 しかしなんだかんだ言っても、もうそろそろ年末に向けての調整をしなければいけない時期にきています。 働かれている方は決算関係がたいへんでしょうね。 また学生さんは期末試験に向けて勉強というところでしょうか。弁護士という職業も年末というと、裁判所との調整や、事件の解決には区切りが良いですから、にわかに忙しくなったりするのです。
 今回は、題名にもあるように「出会い」ということについて一席。 私の仕事は人間関係の調整ということが一番大きな内容ですから、いろいろな人との出会いがありますし、私にとっても人生で出会った人というのがひとつの大事な財産になっています。 もちろん出会いというのは時間的には一瞬のことですから、あまりロングランでは人生には影響は与えないかもしれません。 ところが、人と出会ってその人を知っていくと知らず知らずのうちに影響をどこかで受けて、どこかで人生が変わっているのかもしれません。 
 私が弁護士という職業をしているのも、今までにいろいろな人に出会え、いろいろな師に教えられてきたからだと思っています。 決して一人で今の自分がいるわけではないのですね。今でも仕事でつらいこともありますが、やはり周りにいる人に助けられていると実感します。人が一人で生きていけるという考えは10代ではありがちかもしれませんが、やはり中国の古い教えにあるように2本の枝が寄り添うようにできた漢字が「人」なのかもしれません。
 A君は日本では俗にいう「エリート」でした。 少なくとも大学受験までは。 有名高校をでたA君は日本で受験に失敗し、家族に対しても世間に対しても否定的になりました。部屋から出ずにひとりっきりになってしまいました。心も体も外の世界と切り離し自分一人でものごとを考え始めました。 親は困りあぐねて環境を変えればと思い、アメリカの学校に彼を送ったのです。 アメリカでの生活は楽ではありませんでした。 まず語学ができない、人間関係がうまくいかない。 それに社会から学校からなにもかも違う環境でA君は苦労しました。 だんだん活動的になってきたA君でしたが、心はまだ過去の失敗を引きずっていましたし、今まで親の元で味わった「甘え」がまだ残っていたようです。 それでもA君には友� �もできはじめ、学校にも行き、普通に学生生活を送っていました。
 彼が私のところに相談に来たのはよくある「けんか」に巻き込まれた時でした。話を聞いていると、彼が一方的に悪いとは思えず、また内容もそれほどひどいものではありませんでした。 それよりもA君自身がなぜか暗いイメージを持った子だなぁと最初は思いました。 その反面すごく気を遣い心が優しい子だなと感じました。事件はさておいて「何かあるな」とは感じましたが、初対面ではなにもわかりません。 その後、事件も進行していきましたが、事件よりもその子の考え方それに将来ということがいつも私の念頭にありました。 きっかけができてくるとA君は私に心を開きだし、色々話してくれるようになりました。それでもなにか言わないことがあるような感じがしていました。 私は、もう弁護士の仕事の範囲を� �えているかもしれませんが、じっくりつきあい、法律以外の事柄にも耳を傾けました。時間をかけるにつれて、A君がだんだん見えてきました。A君が育った環境、A君が歩んできた道、そしてA君の考え方など、私にも自分が若かった時のことと対比しながら理解をしていきました。不思議なもので、どんな事件でもクライアントのことを知っているとこちらの論理も説得力を増します。裁判官も耳を傾けてくれました。 私はA君が通ってきた人生の過程を説き、刑事事件も納得ができる形で無事に終了しました。
 A君を心配されて、日本からお母さんがいらっしゃいました。 私はA君のいないところで、無理をしいらない程度にA君の過去を聞くことができました。私が感じたのはA君とA君のお母さんは同じことを言っているのだけれども、みる角度が違うんですね。やはり親というと、親の立場。子供を一生懸命教育して育てていこうという立場もわかるのです。しかし、お母さんにも子供が何を考えているのかを理解してもらわなくてはなりません。私はお母さんに、A君が何を考えて感じているのかをできるだけ感情を除いて話しました。その後、お母さんは、A君と2人でじっくりと話をしてくれたようです。
 一段落ついてお母さんが日本に帰国されることになり私と会う時間を作ってくださいました。A君のお母さんと私はもちろんA君のことを話していました。
「お母さん、安心してください。 A君は私と初めて会ったときからは見違えるほど強くなり、しっかりしてきたと思います。」
「まだ、心配です、この先息子がどうなるか。」
「私がついていますから。何か相談事があったらいつでも電話をくれるようにいってありますよ・・・。」
 お母さんが、泣き始めてしまいました。
「先生、」
「はい。」
「息子が、もしもっと早く先生に出会えていたなら、こんな事件に巻き込まれなくてもすんでいたのにと申しておりました。 これからもどうぞ力になってあげてください。」
「もちろんです」というのがやっとでした。だんだん私に心を開いてくれたA君のことを思い浮かべながら、涙をこらえるのに必死でした。A君とのおつき合いは今でも続いています。

みなさんお久しぶりです。 今回は、「悪徳弁護士」の思い出で一席。 弁護士という職業は何かつかみどころが無い職業ですから、皆さんにとっても噂などで判断するしか材料がないこともあるでしょうね。私だってどんな噂を流されているかわからないですが、自分の全力で事件にあたっているのですから、何を言われても別にしょうがないと思っています。 弁護士の仲間内で話していると、事実を知らないのにいろいろあらぬことをいう人がいるもんだな、と変に感心したりもします。 
 私は過去に「悪徳弁護士」呼ばわりされたことが二回あります。 一回は、弁護士になりたての頃、ある会社の労働問題に巻き込まれていましたが、その関係者と思われる人から名前を名乗らない電話がかかってきたときでした。 面と向かっていうことが出来ない人のたわごとです。 二つ目の「悪徳弁護士」呼ばわりは非常に思いでのある事件での出来事でした。
 もう何年も前になりますが、私はある相続事件を担当していました。 全くといって良いほどアメリカでは身寄りのない日本人のお年寄りが遺言を残して、この世を去りました。 日本から親戚が駆けつけてくれました。 そのお年寄りの妹のA子さん、そして姪のB子さん、つまりそのお年寄りの弟さんの一人娘さんでした。 日本から到着してまだ間も無い時だったので、疲れが目立っていましたが、お二人ともせっせと残された品を片付けされていました。 私が行くと、日本語を話せるということでほっとされて、いろいろ今後のことについて暗く冷たくなった家の中で話し合ったことを覚えています。 私も代理人として事件を受任することにして、親戚の方に混ざって片付けに参加しました。  
次の日になってやっと遺言が出てきました。 私の立会いのもと遺言を開くと、すべての財産をB子さんに相続させると書いてありました。 顔色が変わったのがA子さんです。「B子が全て受け取るのですか...。」 私は、表情を変えずに頷き、肯定しました。A子さんは「そんな、不合理な...。」とつぶやいていました。
 私の仕事はこの遺言のおかげで相当簡単になりました。残された財産をまとめてB子さんに渡せば良いのです。 私は、B子さんに私がしなければならない仕事の内容と、B子さんの権利をわかってもらうために、なんとか二人になる時間と場所を見つけました。 B子さんはあまり貰える財産には興味が内容で、代わりに亡くなったお年寄りの話を随分してくれました。 B子さんの話からわかったことは、B子さんはマメにアメリカに来てお年寄りの面倒を見ていたこと、お年寄りとB子さんは相当関係が良く、たくさんの時間を一緒に過ごされていたようです。 お年寄りの調子が悪くなっても、B子さんがいろいろしてあげたのですね。 
 家の片づけを進めていくうちに私は、このお年寄りが受け取った私信を全て取ってあることに気付きました。 B子さんが若い頃からお年寄りに当てた手紙はすごい数になりました。 お年寄りは大事に何度も読み返していたのでしょう。A子さんや他の親戚が書いた手紙はあまり多くありませんでした。
しばらく、アメリカに滞在していたA子さんとB子さんでしたが、後を私に任せて、日本に帰ることになりました。 B子さんには、財産をまとめて裁判所の検認が済んだら、B子さんに全て財産が相続されることをはっきり伝えましたが、何度言っても歯切れが悪いのですね。 A子さんも私に何度もお礼を言って帰られました。
 事件を進めていくうちに、お年寄りの近所の方とも仲良くなり、いろいろ話を聞くことが出来ました。 その中で、B子さんはよくお年寄りの面倒を見ると評判でしたが、A子さんは評判が悪く、ほとんどお年寄りには接触もしていなかったようです。 お年寄りが亡くなって日本から来たことさえびっくりしていたようです。 B子さんのことについても教えてもらいましたが、彼女は離婚をして、小さな美容院を経営しながら苦労して二人の子供を育てているということでした。
 私はA子さんに対しても別に感情は無かったのですが、事件が終了する前に、私宛にA子さんから手紙が送られてきまして、A子さんに対する評価は変わりました。 私に何度もお礼を述べた後、故人の財産の分割を親戚のなかでどのようにして行なうのか詳細に記載されているのですね。 わたしはびっくりしてB子さんに連絡をしました。「一体どういうことですか?、財産はB子さんに行くんですよ?」B子さんは言葉を濁しながらも、もしB子さんが親戚と財産を分けなければ、親戚中から爪弾きにされてしまうということを漏らしました。
その後、相続も滞り無く終了し、B子さんをアメリカに呼びました。「子供さん達はいかがですか」と答えると、片親で仕事をしながら子供を育てる彼女は、にっこり笑いました。「お金は子供さんのためにも取っておいた方がいいのではないですか」という問いに、A子さんをはじめ、親戚中がB子さんにプレッシャーをかけているのが黙っているB子さんからよく感じ取れました。 「B子さん、やっぱり親戚の方々とわけてしまうのですか? 美容院を女手ひとつで経営するのはたいへんですよね。」
「それはそうなんですけど。」
「他の親戚の方は、家もあるし、一家円満じゃないですか。」
「それでも...。」
 B子さんにとってもお金は必要ですし、相続の財産といっても分けるほど多くありません。 それでも、親戚の目というものはB子さんにとって無視は出来ない様子でした。 お年寄りにしたって親戚に分けてもらうために遺言をかいたわけじゃないですよね。
私は、B子さんに相続財産の大部分をアメリカに残しておくことを奨めました。 ためらっているB子さんでしたが、私は機転を聞かせて「確認書」みたいなものをつくってあげました。 それには、いろいろな経費がかかりで実際にB子さんが日本に持って帰るのは、相続財産の一部であるといった書類を作りました。 ウソではないですからね。 B子さんはお金をアメリカに残していくのですから。 B子さんがお金を本当にアメリカに残していったか定かではないですが、しばらくたって憤慨しているA子さんが私に電話を掛けてきました。 私の書いた確認書の「経費」やその他のあいまいな費用は何かと問いただしてきました。 私はA子さんの質問には答える必要はないので、的を得ない答えをしていました。 A子さんは、私がお金 を使ったものだと勘違いしたらしく、「悪徳弁護士」と叫んで電話をガチャッと切りました。 
 わたしは電話を切ってにんまり笑っていました。 B子さんが子供達と幸せに暮らしていると良いのにな、と今でもふと思うことがあります。


ロシアは京都議定書に署名しましたか?

日本のテレビでハンマー・プライスという番組ありましたよね。 有名人の持ち物や有名人となにかをする権利を競り落とすというやつです。 時には、あんなもの誰が買うんだろうなんていうものまで、何十万円という値段がついていました。 物好きな人もいるんだなぁと思っていましたが、人は各人各様の価値観を持っているのだなと思い知らされましたね。 自分でも熱がはいってしまった時代がありましたからね。 私がまだ学生だった頃、探偵物語という映画があって、故・松田優作と共演していた薬師丸ひろ子という女優さんがでていました。 あの映画をみてからすごく彼女が好きになった記憶があります。 今でも最後のシーンは成田空港だったな、とか覚えています。 なんでも商品化するビジネス戦略に負けて、レコードやポスター、果ては下敷きなんかまで買っていたような気がします。 あの時、「探偵物語」で薬師丸ひろ子が使っていたうんぬん、というのを売りに出されていたら買っていたかもしれませんね。 でも、その後、「里見八犬伝」という映画で、真田博之と共演していたのですが、その映画のキス・シーンを見て、熱が下がってしまいました。
 今回は、なんでこのような前置きになったかというと、人の価値観をうまく利用する詐欺まがいの商売について書こうかな、と思ったからです。 もう何年も前になりますが、ある相談を日本人の学生さんから受けました。 依頼内容は、あるお店で高価なペルシャ絨毯や壷を買ったのだけれども、どうもニセモノ臭いので返品したいという内容でした。 どのような状況で購入がなされたのか、どのようなモノを購入したのか等など、疑問がたくさんあったので、お会いしてからでないと、アドヴァイスはできませんと伝えたところ、直接、私に会いに来られました。
 話を聞いてみると、どうしたものかなと考え込んでしまいました。 まず、購入したものですが、本物かニセモノか判断しなければなりませんが、肝心の購入した品はその店から直接日本に送られていて、私が直接見て判断することができないという点でした。 ただ、購入した金額はなんと数百万円程度と高額でしたが、もし購入した品が本物であれば、もっともっと高価なはずだったので、たぶん一桁間違えていなければ、ニセモノであろうと判断しました。
 ニセモノを本物として売っているなら、詐欺ですよね。 ところが、唯一の書面による証拠は、レシートのコピーなのですが、そのレシートにはしっかり日本で言う「~風」の絨毯とか、「~タイプ」の壷と書いてあるのですね。 本物ではないと明記されているのです。 その上、そのレシートには、上記間違いありません、という欄があり、そのクライアントは署名をしているのです。 これではニセモノをニセモノとして買ったということになってしまいますよね。 本人は絶対に店の人は本物だと言ったと言い張るのですが、物的証拠はもちろん何も無い訳です。
 しかし、ニセモノにしては原価がいくらかわからないのだから、何百万円というのは高すぎるではないか、という主張をクライアントの方はされたのですが、人の価値観は様々ですから、原価は100円のボールペンでも、有名人が使えば何十万円でも買う人はいるのです。 ですから、ニセモノを何百万円で買ったとしても、その人が納得していれば、何らの詐欺にはならないのですね。 
 まあ、実際は商談のときに本物だよと言われていたのでしょうし、なかなか店から流れで出られなくなったということもあり購入してしまった様子でしたが、本人の落ち度もあり、詐欺の立件は正直言って難しいかなと思っていました。 加えて、日本人だったということもあり、英語がそう話せないことも状況を複雑にしていました。 検察庁の友人に聞いても、良い答えは返ってきませんし、警察も動いてくれません。 刑事的な詐欺の立件はきついのですね。 相手も、日本人やその他の観光客をターゲットに商売をしていますから、それはもう巧妙ですし、どのような人が裏にいるかわからない状況なのです。
 クライアントにしても、自分のしてしまったことで家族に迷惑がかかると頭を抱えていました。 そんな状態になってしまったら、私がナントカするしかないじゃないですよね。 他に誰も頼れる人や機関がないのですから。 
 弁護士ができることというのももちろん限られていますが、もうこの際、しょうがない、直接乗り込んで、返品してお金を返してもらうしかないと判断しました。 相手に「騙したでしょ」なんていっても話が通じるわけ無いですし、一番良い方法は、返品することだと考えたのです。 レシートを持って、その店に行きましょうと私が言うと、クライアントはあそこの店には二度と行きたくない、というのですね。 そんなこといってもナントカしなきゃ、と私が説得して店に乗り込みました。 クライアントは入り口で待っていましたが、私が交渉しに中に入っていきました。
 まず、店員がスマイルとともに近づいてきたので、自分の身分と用件を伝えました。 まず、スマイルがどこかに行ってしまい、次には店員さんもどこかに行ってしまいました。 しばらく待っていたのですが、店の中の構造もわからないですし、ちょっと見える範囲できょろきょろ店内の「高価」な商品を見させてもらいました。 たぶんどこかに店内を見るカメラか隠し窓があるのでしょうね、動き出した瞬間に店内の電気をすべて消されたのです。 真っ暗になっちゃったんですね。 「やばいな」と思いました。 窓が無いビルですし、暗闇でなんかされたら相手もわからないですからね。 私は大きいので体を伏せ気味にして壁があるほうまで移動して、様子を見ました。 弁護士なのに遺言も書いてないな、なんてことを� �えて、しばらく黙っていたら、照明がついてちょっとマネージャーと名乗る男が出てきました。 予想していたようにいくら話しても平行線でした。 埒があかないので相手にも弁護士を呼ぶように言いました。 電話で話をしてくると言い、中の方に入っていってしまうと、また照明が消えるんですよね。 わざとやっていることがわかったので、大声で警察呼びますよと何回か言うと、私がスイッチも入れていないのに照明がつくのです。 便利な照明ですよね。 私のクライアントは入り口の所にいるので、私一人で「お金返してください」と呪文のように長時間唱えていたら、結局、相手の弁護士を通して返金するということで話はまとまりました。 まとまったといっても、そんな話はしていないと後で言ってごねる可能性があ るので、その店からその弁護士と話をして、確認を取っておきました。 結局、何日か経った後で、日本からまた「商品」を送り返してもらい、全額とはいきませんでしたが、手数料を引いた分だけ取り戻すことに成功しました。 相手が相手だけに最後まで気を抜けませんでしたね。 弁護士は肉体労働にも強くなくてはならないのです。
 その後、お金をほとんど取り戻したことを検察庁の消費者担当の人と話していたら、えらくびっくりしていました。 通常、泣き寝入りになってしまったり、裁判でも負けたりするケースがほとんどだそうなのです。 まさにやってみなければわからないとはこの事件でしたが、あんな目に遭うなら危険手当でももらっておけば良かったかな、なんて思ってしまいます。

前回、この「呑んでソウロウ」のネタに使わせていただいたボランティアで引き受けた立ち退き事件が評価されてサンフランシスコの弁護士会から表彰されました。 まさに一粒で2度なんとかという感じですね。 それにしてもアメリカってすごい国だなとつくづく思いました。 私にしても私利私欲のために事件をやっていたわけではないですし、弁護士会にしても奇跡を期待して私に事件を依頼していた訳ではないのに、ちゃんと評価をしてくれるのですね。 ベイエリアでも弁護士会を通じて行っているボランティア・サービスにおいて法廷弁護士が不足していて困っていましたが、私のところに何件か弁護士から電話がありボランティアに参加してくれると熱い思いを語ってくれました。 これでは、一粒で3度お� �しいですね。 
 さて今回は「お母さん」の話題です。 東京の五反田にある「お母さん」という飲み屋さんのお話ではありません。 母親というのは家族である以上にその人を生んでくれたというある一種の特別な感情があるのは当たり前ですね。 わたしにしても大人になるとだんだんわかってきましたが、母親に対してはどうしても理論で割り切れない感情があるのですね。 弁護士となって様々な人を弁護するようになってから「母親」の立場というものをよく見ることができ、いろいろ学ぶことも多くなりました。
 ・・・三,四年前の事でした。 その日は刑事事件の判決でした。 私の勘で内容はだいたい予想していましたが、クライアントにとっては大変に重要な一日でした。 在宅起訴されていたので、拘置所にはいっていませんでしたから事件でやつれたという感じはありませんでしたが、人生の中でも大事であることは間違いありません。 最悪の状態では刑務所にはいっていなくてはなりませんし。 裁判官が着席してから発言台の前に立った私はある意味ですがすがしく思っていました。 「やることはやった」という自信があったからです。 クライアントである女性は終始緊張した表情でした。 体の大きな私の横に寄り添うように立っていました。 三十代の彼女は、シングル・マザー。 三人の子供をベビーシッターに預け� �の出廷でした。 裁判官が私の担当する事件を呼び、判決を低い声で読み上げました。 裁判官の朗読が続くうちに私は心の中でガッツポーズをしていました。 私の主張が最大限認められているのですね。 私はじっと裁判官を見つめていました。 判決の朗読が終わり胸をなで下ろした私は、横に立っているクライアントに目を移しました。 号泣しているのですね。 私はどのように対応して良いのか迷いましたが、裁判官が次の事件のファイルに目を移したのを確かめて、法廷を後にしようとしました。 彼女を促したのですが、動こうとはしません。 彼女は裁判官に向かって「私のことはどうでも良いです。とにかく子供たちは大丈夫なのですね」と涙声で訴えました。 裁判官は無言でうなずいていました。このクライアン トは自分のことは二の次で、自分の判決だというのに心の中では子供のことがなによりも優先していたのですね。 泣いていた彼女ですが、法廷内にいる誰よりも強くどっしりと感じました。 母親の愛というのは子供には見えない部分もあるのでしょうが、計り知れなく深いものがあるのですね。私が言える精一杯は「はやく子供さんのところに帰ってあげてください」でした。
 私の母親は母子家庭ありながら私と妹を育ててくれました。 母子家庭ということで偏見のある日本社会でつらい思いもたくさんしたでしょう。 それでも、私と妹のことはいつも自分よりも大切に考えてくれていたように思います。 それでも子供の頃は、なにかにつけてけんかもしましたし、随分親不孝をしたものだと思います。母親に叱られたり、母親になだめられたりしなければ、まともな人間になっていなかったでしょう。 私の母親はとにかく曲がったことが嫌いで、潔癖性のところがあります。 曲がっていた私がこうやって弁護士をしていれられるのも母親がいたからでしょうし、受け継いだ血があるからなのでしょう。 弁護士という仕事をして、クライアントから母親の立場でのお話を聞くと、自分でも母親のこ� �を思い出すことがたびたびあります。 大人になって初めてわかる親の気持ちという感じですかね。 私も親子げんかをすることがだいぶ減ってきました。 寂しい気もしますが、母親も私も親子関係において成長してきているのでしょうね。 今では素直に母親を受け入れられるようになりました。 悪ガキだった私を育ててくれたお母さん、ご苦労様でした。 そして世界中のお母さんにも花束を。


作られた船は何ですか

 「呑んでソウロウ」は法律のことはあまり書いていないのに評判は良いようで、ありがたいことです。 でも弁護士の「仕事」であるべきはずの「法律の解説」をせずに「飲み会の席で盛り上がっている」ようなことをしているのですから、弁護士の「あるべき姿」ではないかもしれません。 だからなんだって言われても、弁護士とはパーフェクトでなくてはならないというのは無理な話です、人間ですから。 でも、下品ではいけない、これも人間ですから。 生き方を持っていればそれは良いと思っています。
 なんでこのようなはじまりで書きだしたかというと、俗にいう「医者の不養生」ということわざを、私が実践してしまったことを思い出してしまったからです。 今から考えれば笑い話ですが、私だって「うっかり」してしまうことがあるのです。
 それは、刑事事件に絡んでアリゾナに出張しなくてはならなかったときのお話です。出張が決まったのは、その前日でいつものように、朝から晩まで、キリギリスを夢見ながらありのようにせっせと働いていました。 アリゾナ出張の飛行機は夜10時半くらいだったと思います。 一旦家に帰り、シャワーを浴び、次の日の9時の法廷に備えるべく再度スーツを着て空港に向かいました。 飛行機に乗ったとたんにグーグー寝てしまったことを覚えています。
 目的地フェニックスに着いて、レンタカーを借りる段取りを事務所でつけてもらっていたので、レンタカー会社のシャトルバスに乗り、カウンターまでいきました。 カウンターの人としばらく交渉をしていたのですが、私の差し出した免許証をじっと見るなり、カウンターの人は黙ってしまいました。
「この免許証、期限切れていますよ」
「そんなことないはずなんだけどなぁ。」
 私は、その免許証を見てみると、本当に期限が切れているのですね。 失態です。 早朝に行かなくてはならないのはフェニックスから100マイルは離れている場所ですから、レンタカーがなくては、どうすることもできないのです。 私は、保険も入れているし、何も文句は言われたことがないので、確かに更新はしたはずなんだけど、と主張はしてみたものの、アリゾナですからね、カリフォルニアではないので、チェックする手段もなくて、私は一人お通夜に参列した気分になってしまいました。 でも、お通夜と違うのは9時間後には、フェニックスの郊外で法廷に立たなくてはいけないということです。 告別式ではないのですね。 なんらかの方法で、その田舎町の刑務所がある場所にたどり着かなくてはなりません。� �いや、帰りも無事に帰ってこなくてはなりません。 レンタカー会社の人は気の毒に思ってのでしょうか、フェニックスのダウンタウンまで乗せていってくれるとオファーしてくれたのですが、空港まで連れて行ってもらうように頼みました。 空港の方が夜中では、いろいろ方策が練れると思ったからです。
 夏の夜中でした。 空港に再度着いて、どうしようかなぁ、と外の石でできたベンチに座り、星を眺めていました。 すごく綺麗なんですね。 帰りたいなぁとちょっと思ってしまいました。 それでも仕事ですから、なんとかしなければならない。 疲れていましたが、解決策を考え出すまでは「寝れない」と気合いをいれました。 ちょっとの間、星をみていましたが、予約していたホテルに向かうことに決めました。 作戦は(1)ホテルで送迎の人に聞いてみる(2)タクシーに頼んで刑務所・裁判所まで行ってもらう(3)ダウンタウンのバーで誰かに頼んでみる といったことを考えていました。 空港からタクシーに乗り、ホテルに向かいました。 そのタクシーの運ちゃんは、しきりに「俺が明日運転してやるよ」と� �うことを言っていましたが、なんとなく嫌なやつだったので、断りましたが、非常に強引なやつで「行きだけでも乗せていってやるよ」とオファーしてくれました。「行きはいいけど、帰りはどうするんだよ」と言ったら、「大丈夫、その田舎町にもタクシー会社はあるから」と言ってくれました。 やっぱり、勘で「やめておこう」と思い、ホテルにチェックインしました。 その後、いろいろ考えたのですが、ホテルに聞くのがいちばんてっとり早いとおもって、フロントの暇そうな人たちと話をはじめました。 やっぱり私と似たようなもので良い案がでてこないのですね。 一番、若かったフロントの女の人が「ひらめいた」ようです。 ツアーバスを雇えば、待っててくれるし、時間にも正確だということに気づいてくれたので す。 名案ですね、私はその案に乗ることにしました。 値段もリーズナブルですし、裁判をやっている間も待っていてくれます。 次の朝、迎えに来てくれたのは、大きなセダンでした。運転手の人は私がスーツを着ているのを奇怪に思ったようです。 どこへ行くのかまず聞かれて、刑務所と私が答えたときはもっと奇妙な顔をしていました。 ツアー会社で働いていて、刑務所や裁判所に行くのははじめてだったそうです。 その刑務所がある田舎町にいってみてびっくり。 タクシー会社なんて絶対にないという感じの、月面のようになにもないところでした。 そこに刑務所と裁判所が隣接して建っているだけなのですね。事件はうまくいき、私のクライアントも保釈を許されて、でてくることができました。 しかし、その前� ��夜のタクシーの運転手の言うことを聞いて、行きだけ送ってもらったら、今頃死んでいたかもしれません。 空港で星をみながら、ちょっと心に余裕をおいたのがよかったかなと思っています。まあ、それにしても皆さんも出張などの時には免許証の有効期限には気をつけておいてくださいね。


11月の前半何週間は何となく仕事の効率がよくない、やる気ものらない、人間関係も今ひとつといった状態でした。 皆さんもスランプの時期があるのではないでしょうか。 私も、がんばってもがんばっても渦から抜け出せないといった感がありました。 私は通常「体力勝負」で仕事をしていますので、このような「こんにゃく」のような状況になることはほとんどありませんが、なってしまったものはしょうがない。 悶々としていた気持ちの打開策は一本の電話からはじまりました。
 弁護士会のボランティア・サービスから低所得者の弁護依頼の電話がありました。週のはじまり月曜日でしたので、私も忙しくしていましたがうまく電話にでることができました。 最近では自分の実務に追われてなかなかボランティア・サービスにも顔を出せなくなっていたので、まずはサービスのみんなが元気でやっていることを確認しました。 電話越しでの依頼は「病気で家賃が払えなくなり、小さな子供を二人抱えて困っている賃借人の立ち退き弁護」でした。 調停は二日後、陪審裁判も数日後という、通常ではどの弁護士でも引き受けられないような事例でした。 しかし弁護人がいなければ調停や陪審裁判はうまくいきません。 私も受任を躊躇しました。 私は、「他の法廷弁護人にあたって、どうしても誰も引き� �けられないならまた電話をください」と自分の予定表をにらみながら電話を切りました。 仕事をしながら、時間を見つけてこの寒くなった時期に立ち退きに遭ったら大変なことになるな、とか子供の学校とかはどうするのだろう、などと考えを巡らせていました。夕方五時になる直前にボランティア・サービスから再度電話がありました。やはり、法廷弁護人が見つからず、どうしても私に引き受けて欲しいということでした。 丁度、二日後は時間が空けられそうだったので、私は承諾して、次の日の夜、仕事が終わって遅い時間にクライアントに来てもらうことにしました。
 次の日夜遅く、私の通常の業務が終わり、他の弁護士が全員帰ってしまって静まりかえった事務所に依頼人の女性は子供を二人連れて現れました。 二人の女の子は五歳と七歳。 私の持っていたジェリービーンズをおいしそうに食べて、白い紙にお花や蝶々を書いていました。 依頼人のご主人は日雇いの仕事からまだ帰ってきていないそうです。 依頼人の女性の白人は疲れ切った目の下のくまが濃く、髪の毛もぼさぼさでした。 事情を聞いていくと、私も腕を組んでうなってしまいました。彼女の病気は現代の医学は不治で、皮膚が破壊され病変していくものでした。 病状が進行すると死亡する例も多くある病気です。 彼女は病院通いと療養で働くことができなくなり、ご主人も看病で毎日は仕事ができなくなってしまい� �した。 そのような状態が何ヶ月も続き、六ヶ月間家賃を滞納して立ち退き訴訟に発展したのです。 もちろん大家さんにしても家賃をもらわなくてはファイナンスが廻りませんから困ったことになりますが、賃借人にしても今すぐ追い出されてはホームレスになってしまいます。 そうなれば子供たちも生死の問題になりかねない。涙ぐむ依頼人はいろいろなアパートの問題を挙げてネズミがでるとか、水漏れがするとかいろいろ訴えました。 サンフランシスコではこういった家屋の基本的な居住性が立ち退き裁判の防御となる場合があるのですが、私は依頼人の病状を全面に出すことにして、依頼人にできる限りの医療記録を集めることにしました。 医療記録を集めたからといって、立ち退き裁判の防御には法律的になりません。  しかしストレートに行けば陪審裁判では負けてしまいます。 家賃を払っていないのですからね。 それではこちらの状況を訴えていくしかない。 そう判断したのです。理論ではなく法廷での感です。 依頼人の希望はあと五ヶ月間、家賃を払ってもよいから居たいということでした。 私は、過去の家賃を払わなければ難しいと思いつつがんばってみると依頼人に告げ、次の日の法廷の時間を確かめて依頼人と別れました。 私は訴状を見て相手方のユダヤ人弁護士の顔を想像して事務所を出ました。
 調停の日、私の事務所でまだ法廷活動を生でみたことがないアシスタントを同行しました。 私の法廷活動を見てもらいたかったからです。 私はその日の調停にすべてを賭けていました。 陪審裁判に至った場合は分が悪いと思ったからです。 また陪審裁判でうまくころんでアパートに居続けることができても過去にたまった家賃は支払わなくてはならなくなる危険性があったからです。 だめでもともと、私は心配そうに見つめる家族の刺激を最低限に押さえるために法廷前の廊下に待たせ、裁判官と相手方の弁護士が待つ裁判官の控え室に分厚い医療記録を携えて向かいました。 私のアシスタントが依頼人家族と良い話し相手になってくれていたようで、私は調停バトルに専念することができました。 相手方の弁護士は私� �り背の低いユダヤ人弁護士で、裁判官はアジア系の女性でした。相手方の弁護士はまったく無表情で原告側の主張を謳いました。 まあ、もっともな論理です。 家賃を払っていないということを強調しているだけですから。 私は熱をいれて、陪審員を前にしているように被告である依頼人の病状、また今まで八年間もそのアパートに住んでいて家賃を滞納したことがないこと、今放り出されたらベイエリアの住宅事情では他を探せないことなど、できる限りの弁論を展開しました。 とにかく引き下がらずに丁寧に口を動かしました。 相手の弁護人はいきなり事件に入ってきた私が疎ましいようでしたが、私には関係ありません。 いい加減にしびれを切らした原告側代理人は「What do you want?]と聞いてきました。 私はすかさず、今までの家賃を無しにしてくれ、そして次の六ヶ月間ただで居させてくれ、と頼みました。 自分でも図々しいと思いましたが、原告代理人は顔を真っ赤にして無礼だ、陪審裁判だと手を振り上げていました。 裁判官もちょっと困っていました。 裁判官が「六ヶ月間といってももうちょっとリーズナブルな和解案はないでしょうか」と私の目を見ていいました。 私は心で「にやり」としました。 相手の弁護人だけではなく裁判官にも「向こう六ヶ月間」という枠で考えさせることに成功したからです。 私は、いったん依頼人に方向性を確かめると言って法廷を出ました。 外にでて何をする事もなく深呼吸して体を動かし、第二ラウンドに戻りました。 それから、一時間ほど揉めに揉� ��ましたが、今までの家賃については大家が泣くこと、もう一ヶ月分無料、そしてプラス五ヶ月間は家賃を払うことを前提に居住できるという条件を引き出し、和解が成立しました。 結局私が欲しいものはすべてもらえた結果でした。 簡単な和解書を作り、法廷の外の廊下にでると依頼人の家族が心配そうに座っていました。 私は親指を立てて、大きく笑いました。 子供はキャッキャ騒いでいましたが、依頼人の夫婦は本当に安心したようです。 病気の顔にも笑いが見え、和解書に病気でふるえる手で一生懸命署名をしていました。 これで、この家族は何とか冬は越せると思い私もほっとしました。依頼人の家族はサンクス・ギビングやクリスマスに住むところがあってよかったと何度も神に感謝していましたが、別れ際に依� �人の七歳になる子供が、私に「将来テレビ番組にでてくるような裁判官になりたいと思っていたけど、弁護士になることに決めたわ」と言ってくれました。 その子の頭をなでて満足そうなアシスタントと私は法廷を後にしました。
 帰りの車で、私の心の中で熱いものがふつふつと沸いてきたのに気づきました。 弁護士になった当初の情熱を感じ、思い出を回想したりしました。元気な弁護活動をこなしていく糧ができました。
 夜、家に帰りウイスキーの水割りを口にしながらテレビを見ているとサンフランシスコのホームレスが一人寒さで死んだことを報じていました。 唇を噛みしめました。 私はスランプを脱出したようです。 また毎日がんばっていけそうです。 気分が乗るとお酒もおいしい、呑んでソウロウ。


 桜も散ったのに、サンフランシスコは寒かったり暖かくなったり陽気も忙しく変わっています。私の事務所では花粉症だか風邪だかわからない人もいますが、皆さんはお元気ですか。
 「アンナカレーニナ」に人の不幸というものはひとつひとつ違うということが書いてありますが、弁護士はそのひとつひとつ違う不幸をいかにして対処するかということを仕事にしています。 言葉を返せば、弁護士をやっていることの報酬のひとつに、事件を解決しクライアントに幸せになってもらうことで、自分も「弁護士をやっていて良かった」と幸せに感じることが挙げられます。 最近、私も非常に幸せに感じた瞬間がありました。
 事件は2ヶ月ほど前に私の事務所に入ってきました。 私のグループの弁護士が対応出来ないということで私に電話を回してきました。 事件は永住権申請が最後の面接で拒否されたという事件でした。 電話を取ると悲痛な状況にあることが聞き取れました。 クライアントとなる日本人男性は日本からアメリカに赴任されている方で、奥様と子供二人とベイエリアで10年弱暮らしている方でした。 沈んだ声で永住権が拒否されたことに対してどのようにしてよいのかということをしきりに尋ねられました。 私は簡単な解決策がないことを告げ、すべての書類を持って事務所に来てもらうことにしました。 このクライアントは屈指の大手コンピュータ会社に勤められる方で、永住権の申請も会社の依頼する大手の事務所でし� �。
 次の日に、クライアントは奥様と一緒に事務所に来られました。 疲れた様子、そして不安が強く感じられました。 持ってきていただいた書類を見ると大手の事務所によくあるように担当がころころ変わって連絡が取れなかったり、その問題となった面接に弁護士が遅刻してきたりと細かい配慮に欠けていました。 私は、最終段階で今まで何年も行われてきたほかの弁護士の仕事にいきなり首をつっこんで、結果がでるかわからないので受任を躊躇しました。 その大手事務所の弁護士は対応が遅く、結局拒否から10日経ってもまともな答えが返ってきません。 大手の事務所は簡単に答えを出せないのです。 私は秘書にすべての書類のコピーを取ってもらい、事件を吟味して受任するかどうか考えさせてもらうことにしまし� �。 その夜、通常の仕事を夜までこなしてから、この新件(新しく受任する事件)について文献を読みました。 大手の事務所がどうして簡単に対処できないのかわかりました。 移民法といえども手続が複雑で、基本的には通常の法廷事件の控訴と変わらないのです。 書面も難しいものを提出しなくてはならないし、様々な控訴事由を作らなくてはならない。 終局的にはアメリカ政府を相手にする裁判になるのですから、刑事事件的な要素もふんだんにあります。 これでは、移民法の書面だけ作成している法律事務所では簡単に対処できないはずです。 深夜、様々な文献をリサーチした後、私は受任を決めました。 民事だけではなく、刑事の法廷弁護ができて、更に移民法を知っている弁護士は他にはそういませんから、私が 受任しなくては更に弁護士にクライアントが委任しづらくなる、そう判断したのです。
 次の日週末直前でしたが、クライアントに受任する旨を告げ、私のグループの移民チームとともに事件の対処にかかりました。 簡単に手に入らない書類は直接移民局に行って談判してもらってきたり、移民法に関するあらゆる文献を手に入れて、夜遅くまで読みふけりました。 法廷弁護の勘で、この事件は勝てると思い、全霊を注いで移民法上の控訴書面を書きました。 週末でしたが、コンピュータとずっとにらめっこして日曜日にクライアントに会うまでにすべての書面の作成を終えました。 
 私が、ここまで熱意をもって書面を作成したの理由のひとつは、クライアントの二人の子供さんのことを考えたからです。 まだ、10代の子供さんには将来がある。 アメリカで教育も受けて、英語も話せる。どのような形でも、日本人に世界でがんばってもらいたい、将来の選択を残してあげたい、本当にそう思ったからです。 私も10代でアメリカに来てがんばりました。 若い時の自分を考えた時、負けられない事件だと感じたのです。 上院議員にも助けを求めたところ、すぐに手紙を書いてくれました。
 書面は週末に作り上げました。憲法違反の問題を使い、最悪の場合には連邦の裁判所に事件を持ち込めるようにしました。 クライアントの勤める会社の弁護士から私の事務所にどのようなプランで控訴をするのか電話がありましたが、私は一切答えませんでした。 週明けの火曜日には移民局にクライアントと一緒に並び、控訴の書類を提出しました。 クライアントと私は同じような真剣さで朝から長い時間を過ごしました。クライアントの真摯な態度を感じました。 移民局で待ちながらいろいろな話をしました。 ご家族のこと、ご自身のこと、そして私のこと。 日本に強制送還になることはどうしても防ぎたい。 控訴に関する書類を提出して、クライアントと私の長い一日は終わりました。 結果はわかりませんが、と� �かくやれることはやった、私もそう感じました。 その次の日、クライアントから電子メールが届きました。 その中で、「この状況で、私たちを助けてくれる人は、鈴木さんをおいてこの世にいないと思います。 その鈴木さんと、すぐに出会えた事を、まるで奇跡の様に思えてなりません。もし、鈴木さんの助けがなっかたら、今ごろは、夜逃げのようなかたちで、日本へ向かっていたと思います。そして一生の悔いとして残ったでしょう。二度とアメリカにくることもできないようになったかもしれません。」とありました。 心地よい疲れとともに涙がでました。
 4月のある日、私の秘書が風邪で休んでいる時に、アメリカの司法省から手紙が来ました。 私が直接封筒をあけると面接や口頭弁論なしにクライアントの永住権申請を認めるという書類でした。 朝から、私は飛び上がって喜びました。 奇跡だと思いました。 これで、クライアントの一家が平和にすごせる、そして子供たちのオプションも広がる。 風が強く天気も悪かったベイエリアが久しぶりに晴れた日でした。 安堵と喜びで弁護士をやってて本当によかったと心から思いました。

ふふんとうなずける話をある看護婦さんから聞いたことがあります。 この看護婦さんは何十年も血をみて、修羅場をくぐり抜けることで生計を立ててきた、ものすごいベテランです。 彼女いわく、白衣を着ている時には、何が起こっても動じないけれど、普段着に戻るとちょっとしたことでもあたふたしてしまうそうです。 感心しました。 プロですよね。 そういえば、看護婦になる門出にあたる看護学校の卒業式は、帯帽式といいます。 頭に看護帽をかぶる事でけじめをつけるのですね。 この看護婦さんのお話を聞くまでは、私は制服を自分のプロ意識のなかで「けじめ」をつけるための道具としては位置付けていませんでした。 ふと、自分について考えると、結構「制服」に関する思い出がでてくるもので� �から、呑んでソウロウに書くことにしました。
 私は、元来あまり着る服というものにはこだわったことがありません。 ひとりでいるとき大抵はTシャツにスエットパンツで徘徊していることが多いですね。 大学時代にもスーツを持っていませんでした。 アメリカでの大学時代はスーツ無しでも別に問題無く過ごせましたが、就職活動のときには焦った思い出があります。 のんきな私は世で言う就職活動というものを積極的にしませんでした。 それでも、捨てる神あれば拾う神ありで、いくつかの会社からお誘いをいただきました。 そのなかで日本の銀行が2つあり、面接に行きました。 わざわざ、日本から人事のひとが採用に来ていた時代です。 ロスアンジェルスまでの飛行機の切符も出してくれるし、興味半分でちょっと行ってみよう、と思いました。 一つ目の� ��接は、面接する人が余りにも面白くないし、非常に薄っぺらい人でした。 それになぜか、奇妙な目で見られた気がします。 私も、興味が半減して、早々に帰らせてもらいました。 
 二つ目の銀行の面接のときは一回目の時と違い、面接をしてくださった人が非常に気に入りました。 気さくで話も弾み、こちらも構えないでもいろいろ興味深い話ができました。 その方は司法にも興味があり、日本で司法試験を受けていた事なども話してくださりました。 銀行側が気に入ってくれた様子で、もう一度面接に来てくれといわれました。 吝かではないので、何ヶ月か後にもう一度、ロスまでいきました。 その時は、候補者が全員集合して、テストをしたり行内の見学をするのですが、その時になって、なぜ最初の銀行の面接のとき人事の人が私を奇妙な目でみたのかを理解できました。 服装なんです。
 私以外のすべての学生さんは紺のスーツに地味なネクタイをしているのですね。 私といえば、ジーンズに、一見スーツの上着にも見えるような皮のジャンパーでした。 おまけに、ひげが生えていて背が高いですから、一人だけ浮いていたのですね。 これがリクルートルックなんだぁと感心していました。 私が浮いている事が判明したので、個別面接のときに、そのことについて言及しました。 そうしたら、面接官が笑ってくださいました。 この銀行は物好きというか、私を東京の最終面接まで呼んでくださいました。 残念ながら、弁護士になる道を選択しお断りしましたが、今でもこの銀行には入行できたらおもしろかったかな、と思います。 しかし、見事に紺のスーツで統一されていた人たちの事を思い出すと、大� �なありの行列みたいで、おかしかったですね。
 法律に携わるようになってからは、どうしたってスーツを着なければなりません。法廷に行くときも然りですが、クライアントの方に会うときも然りです。 ところが、服装に関してはうまく調整できず、最初の頃はどうもスーツというものに馴染めませんでした。 なんか首をしめられているようで。 弁護士になって最初の頃には自分でも笑ってしまうエピソードがいくつもあります。 
 弁護士になりたての頃、ある事件で裁判所に提出する書面を作成し、相手方の弁護士に早急に届けなくてはいけないというミッションがありました。 なりたてのころですから、手際も悪く、あと三時間くらいしか時間がありません。 自宅で書面を完成させ、エイヤッとオートバイに乗り、相手の法律事務所まで飛ばしていきました。 受付までいって、間にあったと内心喜んで、OO弁護士に書面を渡したいというと、後ろの入り口から入ってくださいと言われました。 なるほど、後ろの方に弁護士の部屋がたくさんあるのだな、と思い、入っていくとなんと、郵便物の集配所なんですね。 自分のカッコをみると、街中を自転車で走っているメッセンジャーよりもぼろぼろなんですね。
 一回、ある刑事事件で、書面を裁判所に届けようと思い、法廷に私服で入っていき、裁判官の控え室である法廷の裏の入り口に入ろうとしたら、廷吏に取り押さえられた事もあります。 被告人はこれより奥には入れませんですって。 
 刑務所に接見に行くときには必ずスーツを着るようにしています。 接見をするにはいくつも厳重に閉められた扉を明けていかなくてはなりませんから、間違えられて出られなくなったらコワいですからね。
 クライアントの方にしても、やはり弁護士がスーツを着ていないと、特に初対面では違和感を感じるのではないでしょうかね。 アメリカ社会一般でも、やはり弁護士はダークスーツを着て、使いふるした革かばんを持っているという印象ですかね。 最近では、カジュアル化している法律事務所も多いですが、法廷などに行くときにはどうしても、ダークスーツが弁護士の制服という感じがしますよね。 
 私が弁護士になりたての頃、クライアントの相談にのっていました。 20分ほどお話をしていたのですが、そのクライアントが、鈴木先生はまだですかねって私に言うんです。 その時はわけがわからなかったのですが、私が私服を着ていたために、弁護士とは思われていなかったらしいのです。 
 服装で人を判断する事を私は絶対にしませんが、世の中にはある程度の期待みたいなものがありますね。 最近では、私も皆さんの期待を裏切らないような風体で仕事をしておりますが、時々、シャツを着て、ズボンをはいて、ベルトをしめて、ネクタイをしめて、上着を着てという一連の作業がまどろっこしくなります。誰か、オートバイに乗るときのツナギのような、スーツを作ってくれないですかね。 アイロン不用で着心地の良い綿でできているようなやつを。 私が第一号のお客様にさせていただきます。 それではまた来月。


何故か最近「び~む」の刷り上った現物が私の事務所に届かなくなったので、私の原稿がどのように掲載されているのか見ていなかったのですが、この間久しぶりにマーケットに置いてあるのを見てみました。 内容もちょっと前とは変わったみたいですね。 私は電子メールで原稿を毎月書いているために、ちょっと逃すと、活字になったものを見ることができません。 自分で書いているのにおかしいですよね。それでも、ちゃんと読者の方はこの「呑んでソウロウ」を読んでくださっているようで本当に感謝しています。 これからもご愛顧のほどよろしくお願い致します。
 この「び~む」を読んでいる方々はほとんどの場合、日本からいらっしゃっている読者なのでしょう。 こちらには勉強しに来られたり、転勤で来られたりしているのでしょうね。 もちろん転勤されて来られたご家族なんかもたくさんいることでしょう。 自由気ままに生活できるアメリカ、特に服装なんかにも拘らないカリフォルニアですが、やはり仕事で来るとなるとそれなりの制約が課されます。 特にサラリーマンの方々にはお金を稼ぐというタスクと、家族を養うというタスクがありますから、責任感という意味では非常に大変なものが圧し掛かります。 
 私がどんなに弁護士として相談に乗るとしても、その依頼者の代りにはなれないというシチュエーションがたくさんあります。 日本人がアメリカに来て、アメリカの文化の中で会社を立ち上げ、そしてなんとか成功させていこうという事例は少なくないでしょう。 アメリカという土地は夢をくれますし、また希望をさえぎる壁もありません。 
 企業がアメリカに進出する場合、まず直面するのはお金がかかるということです。 必要以上の弁護士費用、会計士の費用そして賃貸に関わる費用など、両手では足りないくらいのお金が出ていきます。 そしてアメリカで事業を成功させることを任されて日本から送られる人達。 プレッシャーは考えられないものです。 日本企業が頭を悩ませる要素の一つに人事関係があります。 偏見やセクハラなどどのような企業においてもアメリカでは直面しなければなりません。
 私は日本人の上司であるということだけでプレッシャーとなる事例を沢山見ています。 わがままな被用人、そして理解を超えた文化の差、現地にいるだけで気の遠くなる問題が待っています。 アメリカで人を雇うということは日本の本社でもわかってくれない場合もあり、アメリカにいる経営者としての日本人としてのサラリーマンと板ばさみになってしまうという事例がほとんどでないかと思います。
 何年か前に、セクハラを受けたという女性を代理して、日本の企業を訴えたことがあります。私は、間違っていると思えば、弁護士として日本企業でも、その間違えを認めて悪いことは正すべきと信じています。 長い目で見た場合、日本の企業にその方が良いからです。 ある事件で原告の女性から事情聴取をして、セクハラに間違いないというケースがあり、日本企業相手に訴訟も辞さないという構えを取っていた事件がありました。
 相手方となった日本の企業の責任者は日本人。そして実際にセクハラをした人はアメリカ人でした。事件を仲裁に持っていき、話し合いをすることになりました。そのアメリカ人は、ほとんど、言葉を口にせず、石像のように、黙っていました。私は、同僚の弁護士とともに、弁論を間髪おかずに繰り広げ、相手をやり込めようとしました。
 私達原告側の弁論を受けて、口を開いたのは、そのセクハラをしたアメリカ人ではなく、日本人の代表者でした。その人は、会社が出来る限り、そしてその人個人が出来る限り従業員の面倒を見ようとがんばっていたということを中心に反論を加えました。内容的には、要するに会社側がどんなにその原告となった被用人に対し、充分な誠意を示していたかということを言いたかったのです。
 その、日本人の代表者の理論としては、ちょっと的外れの感がありました。しかしその訴えられた会社を背負って会社のために必死になって弁論した姿には、心を打たれるものがありました。その人の立場からは自分の勤めている企業が一つの民事事件によって打撃を受けてしまうということが深刻な問題となることを理解していたのでしょう。
 仲裁は、原告として満足のいく内容でしたがそれ以上に、私はその被告となった日本企業アメリカ現地法人における経営者の最後の潔さと日本人としての誠意を忘れなかったことに敬意を表しました。
 仲裁人の判断を元にして和解が成立した後、去って行ったその日本人経営者の背中は、連れてきたアメリカ人弁護士より、威風堂々としていました。アメリカでの企業経営の難しさはありますが、日本人が問題を乗り越えてビジネスを切り開いていく姿は敵ながら一種、頼もしさを感じました。頑張れお父さん。



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