100周目:100年後のレース : サーキット徒然草 : モータースポーツ : @CARS : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
時は1904年。自動車競争が始まってからちょうど10年。馬なし馬車(horseless carriage)は自動車(automobile)へと名称を変え、文化の中心地フランス;パリから世界各地に向けて広がりつつあった。
19世紀末以来、パリを起点として郊外へ、そして隣国へと競走する、いわゆる「都市間レース」は、前年1903年の「パリ〜マドリード」で発生した悲劇により、この年から開催不能となっていた。沿道の観客をも巻き込む重大事故が頻発し、ドライバーのマルセル・ルノーを含む計8名が死亡、レースは途中で中止となった(首位ガブリエルの平均時速は105km/hにまで達していた)。2位を走っていたルイ・ルノーは弟の死を知り、レース撤退を決めた。ルノー兄弟が興した「ルノー」がフランスを代表する車へと成長するのは、その後の話だ。
未だ舗装もままならぬ一般公道を闇雲に突っ走る「都市間レース」の禁止は、閉鎖された周回路での競争を促すこととなった。「サーキット」という考え方がここで芽生える。ただし本格的なレース専用サーキットの誕生は1907年のブルックランズ(イギリス)が最初で、それまでは、公道や広大な広場を閉鎖しての臨時コースといった趣だった。自動車自体がまだまだ珍しい存在で、公道を行き交う交通量が少ないから可能なことであり、逆に、そういう時代だからこそ多くの人々が物珍しさに釣られてレース観戦に訪れた。
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1904年に開催された国際的なレースはたった4大会。《第5回ゴードン・ベネット・レース》(ドイツ)、《サーキット・ド・アルデンヌ》(ベルギー)、《コッパ・フローリオ》(イタリア)、《第1回ヴァンダービルト・カップ》(アメリカ)。
6月17日《第5回ゴードン・ベネット・レース》。ニューヨーク・ヘラルド新聞の社主ジェイムズ・ゴードン・ベネットが1899年に考案した世界最初の国際自動車レースがこれ。各国3台ずつの国別対抗戦で、マシーン/ドライバーともその国のものでなければならなかった。1900年に第1回をパリ〜リヨン間で開催。優勝国が翌年の開催地となる決まりだったが、02年はイギリス人セルウィン・エッジが操るネピアが勝ってしまい(完走1台!)、さあ大変。当時イギリス本土は「赤旗条令」の名残りで、レース開催どころか自動車は時速20mph(32km/h)以上出してはいけなかった。そこで03年は窮余の策としてアイルランドで開催、ここでメルセデスが初のビッグレース勝利を挙げたことから、04年はドイツのフランクフルト近郊ホンブルクでの� �催となった。参加各国は地元国で事前に選抜レースを催して盛り上がった。決勝ではフランス人レオン・テリー操るリシャール‐ブラシエ80馬力が512kmの距離を5時間50分、87.7km/hのスピードで走り切って優勝。03年の覇者で04年は2位となったメルセデスのカミーユ・ジェナッツィは、本当はドイツ人ではなくベルギー人で、後に自宅敷地内で仲間たちと猪狩りをした際、いたずら心で仲間を驚かそうとして過って打ち殺されるという悲運の男だ。
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7月25日《シルクワ・ド・アルデンヌ》。初開催は1902年で、周回路レースの起源とも言える。アメリカ人ジョージ・ヒース操るパナール90馬力が591kmを90.8km/hで優勝。軽量クラスのレースも前座として行なわれた。
9月4日《コッパ・フローリオ》。ブレシアで行なわれたイタリア初の国際レース。地元ヴィンチェンヅォ・ランチア操るFIAT75馬力(フィアットの前身で全部大文字。排気量は14112cc)が372kmを115km/hで走って優勝。このランチア氏が後に名車ランチアを生む。一方、イベント発案者のヴィンチェンヅォ・フローリオは本大会に選手として参戦して3位、1906年には地元シシリー島を舞台とした有名な公道レース《タルガ・フローリオ》を始める。
10月8日《第1回ヴァンダービルト・カップ》。大金持ちの青年実業家でありスポーツマンでもあったウィリアム・ヴァンダービルトがスポンサーとなってのアメリカ初の国際レースで、アメリカ初の本格的ロードレースでもある(ダートトラックでの競争はすでに数多く行なわれていた)。ニューヨーク州ロングアイランドでの開催に、独仏伊米から計15台が参戦、5万人が見守る中、早朝6時スタート。ジョージ・ヒース操るパナール90馬力が458kmを84km/hで優勝。完走は5台だった。観客がコース脇にはみ出てくるなどの問題もあったが、同大会は第一次世界大戦勃発により中断される1916年まで続いて、人気を呼んだ。
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1904年のビッグ・レースの開催はたったこれだけだが、モータースポーツ界にとっては、もうひとつ重大な出来事があった。世界各国の自動車クラブ代表をまとめた国際的な組織が誕生したのだ。AIACR(Association Internationale des Automobile Clubs Reconnus。国際自動車公認クラブ協会)なるもので、フランス;パリに本部が置かれた。当初の加盟国は他にベルギー/オーストリア/アメリカ/イギリス/スイス/イタリア/ドイツ。これが第二次世界大戦後の1946年、FIA(国際自動車連盟)へと進化する。FIAのホームページで現在「創立100年」を誇らしげに謳っているのは、このAIACR時代を含めての数字ということになる。
AIACRが定めた最初のフォーミュラ(規定)は最大重量1000kgまでというもの。上記4大会はこのフォーミュラに則って開催された。
ところが《ゴードン・ベネット》選抜レースに30台も集まってしまうフランスは、同大会の参加台数制限や運営方法が気に入らず、1906年の開催義務を拒否して独自に新規定の《グランプリ》レースを始めてしまう。こうして結果的に《ゴードン・ベネット》は《グランプリ》へと発展的解消された形となり、さらに第二次世界大戦後にFIAがF1(フォーミュラ・ワン)という車両区分を作り、1950年に世界選手権制度を設けたことで、現在の《F1グランプリ》へと見事歴史が繋がるわけだ。
1904年とは、つまりそのような一年だった。
当時、《ゴードン・ベネット・レース》や《ヴァンダービルト・カップ》を取材した記者が「自動車は今や時速100kmを越えて走るのが常識となった。100年後、この自動車は世界中を走り回るようになるだろう。誰も彼もがそれらを自由自在に操り、自動車なしでは生活できないような時代が来るのではなかろうか。我々の孫のまた孫の世代にでもなれば、時速300km以上の目も眩むようなスピードで競り合うレーシングカーの姿を見ることになるかもしれない。その時、我々の後輩となる記者はきっと『100年後、つまり2104年のモーターレーシングは果たしてどうなっているだろうか。最新技術への好奇心やスピードへの本能的な憧れが人類から消えてなくならない限り、モーターレーシングは永遠に不滅だろう。ただし、動力源と燃料、� �員の有無、そして地面に接地しているかどうかといった点で、今とは大きくかけ離れた形になっても決して不思議ではない』と書くに違いない」と、どこかに書き残していないか、暇なオイラは古い洋書をペラペラめくっているうちに、もう春です。
(2004年3月19日 読売新聞)
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