2012年4月16日月曜日

タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々 - 楽天ブログ(Blog)


亡くなった父は80歳近くまで車を運転して仕事をしていた。

その後、廃車にしたので東村山の実家には自家用車がママチャリになっている。

これは今は「社長専用車」として大活躍する。

小学校2年生の時から26インチの自転車を、所謂「三角乗り」していた。

帰国すると、東村山を颯爽に快走。

ところが、帰りはとんでもなく重くなりハンドル操作に技術力が要求される。

「危ないぞオヤジ!」とか言われないようにしっかり安全運転をしないと。

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「戦争なんかやるもんじゃないよ。人と人が殺し合うなんて、とんでもないことだよ。絶対にやるもんじゃないよ。」
今日は、父の命日。調度1年前の今日、父は前立腺癌のため他界、88歳。その1カ月程まえ、父と私はミカンを食べながらいろいろ昔話をした。その時の父の言葉だ。父の遺言と思っている。

戦争は、領土、物を求めて国民を駒として使い捨てるもの。国際金融資本と武器製造会社が儲かり、庶民は殺されるもの。これは、私見。

父は「ラバウル小唄」が好きだった。というより、歌いながらいつも感傷的になっていた。

戦争、またそれに類する国の酷政に対しては、とことん反対していく。それが、父への私からの応えだ。

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人妻と手をつなぎながら盆踊りを見ていた。胸がドキドキした。もう、そのまま時が止まって欲しかった。小学校2年生の時だった。

神奈川県津久井浜海岸での盆踊りを、投宿している伯母の家に遊びに来ていた遠縁の美代子さんと見ていた。年は、恐らく私より二回りくらい上だったのだろう。ほのかな思いを寄せてしまった。禁断の思いだった。

「本当にタコったら、美代子さんの隣がいいってきかないんだよ。」
翌年、叔母と母が秋田に里帰りするときに、一緒に我々子ども達も行くことになった。そして、どういう訳か美代子さんも一緒だったのだ。上野から鈍行で秋田ま16時間も掛かる信じられないような長時間。お陰で、車中ではいろいろな動きがある。

途中で、私はどうしても美代子さんの隣がいいと言って母を困らせた。その頃から、異性に関することでは、妥協をを許さない律義な性格だったようだ。


オーストラリアの民主主義は何ですか?

美代子さんとは、この後中学1年になるまで会う機会がなかった。右肩上がり急カーブの恋心が、会ったときにどん底に突き落とされたその時の経験は、後世に語り継ぎたいようなものだったが。

この小学校2年生の時の経験がトラウマになってしまったのだろうか、今でも人妻と手をつないだりすると胸が張り裂けんばかりにドキドキする、、、、、ものなのだろうか、などと思ったりもしている。

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子どもの時の農作業とかの話ではない。農作業といえば、母は秋田の農家を16歳の時に出て東京に移り住んだという。貧しい事もあったのだろうが、農作業があまり好きではなかったともいう。私もその血筋、前の帰国の時に買って密輸した「ごぼうのタネ」をまだ植えていない。

「先に出たら、トラックのインコースぎりぎりを走るんだよ!」
小学校1年生の時、教育実習に来ていた大柄で学生服姿の大貫先生が、緊張しきっている私にそう耳打ちした。練馬区立第二小学校の運動会の当日のことだった。この時、すでに私たちは新設分校の向山小学校に移転していたが、運動会は元の学校で行われた。

運動会の前の晩は寝られない。興奮して寝られない。遠足の前の晩もそうだったが。文房具屋さんで買ったばかりの運動用地下足袋を枕元にそっと置いて寝る。

私たちが小学校の時、運動会ではこの地下足袋を履いて一日を過ごした。以前、この話をしたときに、ある人が自分は裸足だったと言われていた。因みに、あまり関係はないと思うがローマオリンピックマラソンの優勝者エチオピアのアベベ・ビキラも裸足だった。

私は、小学校の時、身長と徒競走では� ��にも負けたことがなかった。ところが、僅かな差で追いかけてくる学友がいた。留野と言った。足の方では将来抜かれる事になる。

親指で割れている地下足袋は実に走り易かった。機動性が高く、足にしっかりとフィットする。しかも安かった。難点は、ほころび易かったこと。踏まれたりすると痛かったことなど。

枕元に置いて、一日一緒に寝た地下足袋は、運動会の唯一日のためにあり、その日が終わるともう履けなくなり無残にも捨てられた。

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数7.63へ1000000000分の10を書き込む方法

「イカが生まれたときはね、出産の費用がなくてね秋田の実家に頼んでお金送ってもらったんだよ。」

兄のイカが生まれたのは昭和25年、本当に貧乏のどん底だったようだ。でも、当時は皆同じような境遇だったのだろうが。

オーストラリアから里帰り中の今、母とは毎日本当にいろいろ昔話などしている。面倒を診ていた父も世を去り、食後いつまでも、いつまでも母の話は続く。会話を終えるのは、いつも私の方だ。そうでもしないと、朝ごはんの後すぐ昼ごはんになってしまいそうだ。

「一人で食べていると、美味しいとか不味いとか言ってくれる人がいなくて、そんな時は淋しいと思うね。」

今回は、できるだけ母と過ごす時を大切にしたい。

「男ってものは、隙があるとすぐ女にちょっかいだしたり浮� �するもんなんだね。」
ドキッ! 話が多岐に渡り、こんなことも言い出す母。

「俺はそんなことはしないよ。」
と言おうとして止めた。他意は全くないのだが、唯大正生まれの母の主義主張には逆らわないことにしようと思っている。

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一浪して、やっと大学に合格することができた。本当に、やっとという感じだった。次の日が入学式だった4月13日、浪人生活最終日、浮いた気持ちを追いかけるように池袋をふらついていた。小さな買い物を済ませ、東口にあった小さな喫茶店に入り6時間も居座ることになった。それから、調度2カ月で二十歳になる日だった。因みに、私は6月13日金曜日生まれ。だからどうした、ということもないのだが13日の金曜日が大好きだ。

自慢じゃないが、同じ喫茶店に6時間も居続けたことは3回しかない。1回目はこの時。2回目サラリーマン時代、終電を逃して深夜喫茶で夜明かしの時。3回目も実はサラリーマン時代だったが、会社後輩の女性2人と男性1人とだった。

4人で六本木のディスコ、今は無くなっているがレキシントン� �イーンで踊り新宿歌舞伎町に流れ、そこにあった喫茶店で夜を明かした。恋心が芽生え始めた山根さんと真向かいに座った。酔いと眠気で皆うとうとし始めた。目が覚めると、山根さんが口をやや開けて歯をむき出しにして、鼻の穴が見えるようにして寝ていた。もしかしたら、山根さんも私のとんでもない寝顔を同じような気持ちで見ていたのかもしれない。


南極に到達するためにどのくらい時間がかかりますか

池袋での出来事を書こうと思ったら、喫茶店長時間滞在記になってしまった。今は、喫茶店がカフェになり喜悲劇の質が変わってきているのだろうか。40年前に池袋で入った喫茶店は跡かたもなく大きなビルに変わっている。そして、新宿歌舞伎町が薄っすらと明け始めた朝、お互いにほとんど無言で歩いた山根さんとはあれっきりとなった。

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半年ぶりに日本入り。

西武池袋線の新秋津駅に着くと、そのまま1000円床屋へ。2週間ほど前に、オランダ系の連れ合いに刈ってもらったトラ刈りを修正。オーストラリアでは床屋に行くことがないので、この10分床屋はいつもの楽しみ。

家に着くと、朝から料理して母が待っていた。変わらぬ母の姿に思わず小さなハグ。そのまま、昼食。から揚げ、魚の煮付けに混ぜご飯。ビールで乾杯。

食後、趣味の毛染め。そうして、うとうとしていると、とんでもない天候に。なんと、台風並みの低気圧。強風大雨大荒れだ。嘗てなかったことのようなので、アラスカのHAARPが悪さしたのかなどといつものように陰謀も頭をよぎる。夜の便で来ていたら東村山に辿りつけなかったようだ。

「お父さんが守ってくれたんだね。本当に良 かったね。」
父の一周忌で帰ってきているのだが、母がそう言って食べ物でいっぱいの仏壇に手を合わせた。

「宅急便、明日の午前中になるって電話があったよ。」
昨年の9月のニュージーランド旅行、荷物紛失のこともあったので、大切な常備薬やPC関連の物は手荷物にしていたが、それでも不便ではあった。大好きな、ユニクロのシルキーパンツも1日おあずけ。

体内時計は2時間早いので、遅く寝たのだが今朝4時に目が覚めて寝られない。5時半前に、今回最初の早朝ウォーキング。

もしかしたら、この不況で恒例の早朝所沢テレクラ・リンリンハウスご挨拶はもうできないのではないかと心配だったが、いつものように立って笑顔で挨拶してくれた。

それでも、高級呉服屋はヘヤードレッサーの店に、高級カラオケ店はつぶれていた。半年の間にいろいろ悲喜劇が起きている。

ということで、東村山での生活が始まった。連れ合いには、そんなに長く行くのかと言われ、母には� ��んなに早く帰るのかと言われ、早くも股裂き人生に勢いがついている。

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「ピーターさん、レストランが休みの月曜日にレストランを使わせてもらえませんか。日本語クラスを開きたいんです。」
メルボルンの青山と私が勝手に言っていたサウスヤラにあった「南レストラン」でバイトをしていて、そこで日本語を教え始めたいと思っていた。オーナーのピーターさんにこう言うと、ピーターさんは快くOKを出してくれた。正直、やっと移住の目標「日本語教師」をスタートできる、そう思うと胸が熱くなった。1986年の6月のことだった。

昼は主婦のクラス、夜は仕事をしている人のクラスがスタートした。毎週月曜が待ち遠しくてしかたなかった。オーストラリアで日本語教師に成る、と言ってサラリーマンも辞め、両親も説得して来ていたが、なかなか機会が持ててなかったのだ。

「きのう、なにをしましたか?」
「うみに 行きました。」

「買います、買いません、買いました、買いませんでした、、、、、」

初級のクラスは生徒の成長が早くて教師としても遣り甲斐がある。ここで、面白くないとなれば彼らは絶対に続けない。初級の教師程大切なものはないと今も思っている。それには、何よりクラスが楽しくないとならない。日本の学校の英語のクラスが楽しいと思ったことはなかった。いつもびくびくしていたような気がする。

「南レストラン」で教えることができたことが、その後の私の日本語教師としての道をしっかりと開いてくれることになった。ピーターさんは今、香港に住んでいてときどきメールをすることができている。恩人だ。

代々木にあったパナリンガ学院で日本語教師になる勉強をしていたとき、その 長島学院長がいつも言われていた。。

「タコさん、大丈夫です。必ず道は開けます!」

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