どのように多くの数字オリンピックリングの
柔道 - Wikipedia
柔道(じゅうどう)は、武道の一種。また、格闘技、スポーツ、武術にも分類される。
日本の国技の一つであると同時に広く世界各国でも普及しており、オリンピック種目にもなっている。
今日において、単に「柔道」といえば一般的に日本伝講道館柔道(いわゆる講道館柔道)[1]を指す。現在、講道館は東京都文京区春日1丁目にあり、全日本柔道連盟(全柔連)もそのビルに入っている。国際競技団体は国際柔道連盟(IJF)である。
講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体と精神の鍛錬と教育を目的としている[2]。この講道館柔道は国際柔道連盟の設立やオリンピックでの競技採用など広く国際化に成功している柔道でもあり、多くの国では「Judo=講道館柔道」となっている。
※以下、本稿では主に国際柔道(日本伝講道館柔道)について記載する。寝技中心の七帝柔道(高専柔道)および古流柔術の起倒流柔道については各々の項目を参照。
[編集] 柔術から柔道成立まで
「柔術#歴史」も参照
古くは、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われた武士の合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。柔術は幕末までに百を越える流派が生まれていたとされる。
明治維新以降、柔術の練習者が減少していた中、官立東京開成学校(のちの東京大学)を出て学習院講師になったばかりだった嘉納治五郎が、当身技(真之当身)を中心として関節技や絞め技といった捕手術の体系を編む一方で乱捕技としての投げ技も持つ天神真楊流柔術や、投げ技を中心として他に中(=当身技)なども伝えていた起倒流柔術の技を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法、練体法、勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年(1882年)、東京府下谷にある永昌寺という寺の書院12畳を道場代わりとして「講道館」を創設した。
もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例[3]などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。
嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが、当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(1928年(昭和3年)『作興』に連載)によれば、警視庁武術大会で楊心流戸塚派と試合し2〜3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。なお、当時の柔道は当て身が存在したことなど、柔術の影響が極めて大きく、現在のそれとは大きく異なったものである。また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は天神真楊流などの他流柔術出身の実力者であった。この試合の後、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として採用した為、全国に広まっていったという(なお該当の試合については日時、場所、対戦相手、勝敗 結果について明白な史料はなく、山下義韶の回想記(雑誌『キング』1929年(昭和4年)10月号)では明治19年(1886年)2月に講道館四天王の西郷四郎(小説「姿三四郎」のモデル)が好地円太郎に山嵐で勝ったという他、明治18年5月、明治19年(1886年)6月、10月説などもあり、西郷四郎の相手も昭島太郎であったという説もある)。
[編集] 学校体育と柔道
日本の学校教育においては、1898年に旧制中学校の課外授業に柔術が導入された際、柔道も、必修の正課になった。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、昭和25年(1950年)に文部省の新制中学校の選択科目に柔道が採用された。次いで昭和28年(1958年)の学習指導要領で、柔道、剣道、相撲などの武道が「格技」という名称で正課の授業とされた。平成元年(1989年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。
[編集] 社会体育としての柔道
現在では、道場での活動のほかに警察署における活動・警察署における青少年の健全育成のための小中学生を対象にした柔剣道教室の開催、中学・高校の体育の武道の授業・学校や社会人の運動部でのクラブ活動などが行われている。剣道と並び日本で最も広く行われている武道の一つとなっており、「柔剣道」と呼称されることも多い。 なお警察学校においては、柔道が必修科目となっている。なお、警察学校入学時に柔道の無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。
[編集] 国際的競技としての普及
「オリンピック柔道競技」も参照
柔道の試合競技は1932年のロサンゼルスオリンピックで公開競技として登場し、1964年の東京オリンピックで正式競技となる。この大会では、無差別級でオランダのアントン・ヘーシンクが日本の神永昭夫を破って金メダルを獲得し、柔道の国際的普及を促す出来事となった。女子種目も、1988年のソウルオリンピックで公開競技、1992年のバルセロナオリンピックでは正式種目に採用された。
現在は、世界中に普及し、国際柔道連盟の加盟国・地域も199カ国ある(2007年9月現在)。日本以外では、欧州、ロシア、ブラジルで人気が高く、特にフランスの登録競技人口は50万人を突破し、全日本柔道連盟への登録競技人口20万人を大きく上回っている。ただし幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なるため、この数字を単純に比較することはできない。
また、この登録人口そのものに関しても、一般に想起されるいわゆる柔道人口とは異なる。これは柔道の役員、審判員、指導者、選手として公的な活動に参加するために行われる制度で全日本柔道連盟の財政的基盤でもある。日本国内では、学校体育の授業として経験した人、学生時代に選手まで経験したが現在は全く柔道着どころか試合観戦程度という人、子供と一緒に道場で汗を流しているが、段がほしいわけでも試合をするわけでもない人など、未組織の人たちがたくさんいる。講道館でも、地方在住者は初段になった段階で入門するのが通例であり、門人、有段者ではあるが、毎年、登録しているとは限らない。したがって柔道人口、登録人口、競技人口、講道館入門者数は意味合いが違うので注意する必要がある。故に「柔道� ��口」を把握することはほぼ不可能で、推定でしかないのが実状である。
[編集] 海外の格闘技と柔道
こうして柔道の国際化が進む中、外国選手を中心とした技術の変化も見られるようになった。これは、海外の柔道競技者の多くは柔道と同時に各国の格闘技や民族武術に取り組み、その技術を柔道に取り込んだり、試行錯誤の上新たな技術を考案するなど、日々技術を変化(進化)させているからである。技術が柔道に取り込まれている民族武術・格闘技としては、フリースタイルレスリング、グレコローマンレスリング、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン、クラシュ、コウラシュ、ブフ、サンボ、ブラジリアン柔術などがある。 技術の変化に対して、海外の柔道(世界的に見た柔道)は、(武道としての)「柔道」ではなく、競技としての「JUDO」である(になりつつある)と柔道の変質を危惧する日本人は少なくない。
ただし、海外の柔道の試合は今でもポイントを狙う試合展開をすると思われていることも多いが、それは誤解である。外国選手はむしろ大技中心の柔道であることが多く、国際試合の一本勝ちの集計からもその事実は明らかである。IJFルールも、「効果」を廃止したり足取りばかりを繰り返す試合展開を規制するなどにより、迫力のあるスピーディーな決着を促す方向で改正されている。
[編集] 修行の方法
講道館柔道において修行は、形と乱取りによって行われる。嘉納師範はこれについて「形とは、攻撃防御に関し予め守株の場合を定め、理論に基づき身体の操縦を規定し、その規定に従いて、練習するものをいう。乱取とは一定の方法によらず,各自勝手の手段を用いて練習するものをいう」と述べている。形と乱取りは別物と考えてはならない、根本の原理、その精神は変わりがないからである。また、初期の講道館における状況を嘉納は師範は,次のように述べている。「明治維新の前は柔術諸流の修行は多く形によったものである。幕府の末葉にいたって楊心流をはじめ起倒流、天神真楊流その他の諸流も盛んに乱取を教えるようになったが、当時なお形のみを教えていた流派は少なくなかった。然るに予が、講道館柔道において乱� �を主とし形を従とするに至ったのは,必ずしも形を軽んじたが為ではない。まず乱取を教え、その修行の際、適当の場合に説明を加えて自然と各種の技の理論に通暁せしむるようにして、修行がやや進んだ後に形を教えるようにしたのである。その訳はあたかも語学を教える際、会話作文の間に自然と文法を説き、最後に組織を立ててこれを授くるのと同様の主旨によったのである」
[編集] 技術体系
講道館柔道の技は「投技」「固技」「当身技(あてみわざ)」の3種類に分類される。投技は起倒流の技をもとにしているが、固技のような攻撃技は天神真楊流の技に由来していて、当身技は攻撃することによって受の急所に痛みを負わせたりするのに適した護身術である、とされる[4]。
投技の過程を崩し、作り、掛け、の三段階に分けて概念化したことが特徴である。
またこれと平行して、一般的には、立技と寝技にも分類するが、寝技は審判規定において使われる寝姿勢における攻防のことであり、固技と同義ではない。絞技と関節技は立ち姿勢でも施すことが可能である。
練習形態は形と乱取りがあり、形と乱取りは車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取りによる稽古を創始当時から重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取り・試合では「投げ」「固め」のみとした。そしてスポーツとしての柔道は安全性を獲得し、広く普及していく事となった。
それは何の世界で最も高い山であり、どのように高いです。試合で用いることができるのは、投げ技と固め技であり、講道館では96本としている。しかし、実際のポイントになる技は92本である。(当身技は形として練習される。)競技としては投技を重視する傾向が強く、寝技が軽視されてきたきらいがある。しかし、寝技を重視した上位選手や指導者らによって寝技への取り組みは強化されるようになった。またIJFルールの改正によって寝技の攻防時間が短縮し決着の早期化が計られたことと、主に外国選手による捨て身技や返し技と一体化した寝技の技法の普及によって、寝技の重要性は一層増している。
[編集] 投技
投技とは理合いにしたがって相手を仰向けに投げる技術である。立って投げる立ち技と体を捨てて投げる捨身技にわけられる。立ち技は主に使用する部位によって手技、腰技、足技に分かれる。捨身技は倒れ方によって真捨身技、横捨身技に分かれる。また、関節を極めながら投げると反則ではないが投技とはみなされない。詳しくは投技を参照。
[編集] 固技
固技(かためわざ)には抑込技、絞技、関節技がある。
主に寝技で用いることが多いが、立ち姿勢や膝を突いた姿勢でも用いられ、固技のすべてが寝技の範疇に入るわけではない。(寝技と固技は互いに重なり合う部分が大きいとは言える。)
固技のうち関節技は、肘以外はあまり採用されず、乱取や試合では肘以外に関節技をほどこすことは反則とされている。立技での関節技もほとんど行われていない。抑込技は、寝技の場面での攻防を続けるために、うつ伏せでなく、仰向けに抑えるのが特徴である。絞技は、天神真楊流から多様な方法が伝わっており、柔道を首を絞めることを許すという珍しいルールを持った競技にしている。
創立当初、寝技はあまり重視されておらず、草創期に他流柔術家たちの寝技への対処に苦しめられた歴史がある。
分類
講道館柔道では固技が全部で29本あり、抑込技(おさえこみわざ)7本、絞技(しめわざ)12本、関節技(かんせつわざ)10本である。IJFルールでは一部異なるものがある。
抑込技(7本)
相手の体を仰向けにし、相手の束縛を受けず、一定時間抑える技。
絞技(12本)
頸部すなわち頚動脈か気管を、腕あるいは柔道着の襟で絞めて失神または「参った」を狙う技(胴絞は足でどうを絞める技で、乱取りでは禁止技である)。指や拳、帯、柔道着の裾、直接足などで絞めること及び頸椎に対して無理な力を加えることは禁止されている。
関節技(10本)
関節を可動域以上に曲げたり伸ばしたりして苦痛を与える技。乱取りでは肘関節のみが許されている。
上記以外の技
- 後袈裟固(うしろけさがため)IJFルールの技名。
- 枕袈裟固 俗称。(崩袈裟固に含める。)
- 浮固(うきがため)IJFルールの技名。ただし、明治時代の技[5][6][7]とは異なる。
- 小手挫(小手捻) 明治時代に存在し、削除されたが、講道館護身術に再採用された。
- 小手返 講道館護身術にある。
- 首挫 削除されたが、明治時代には存在した。
- 逆指 削除されたが、明治時代には存在した。
- 足挫 削除されたが、明治時代には存在した。
- 足詰 削除されたが、明治時代には存在した。
[編集] 当身技(あてみわざ)
当身技もしくは当技(あてわざ)とは、急所といわれる相手の生理的な弱点などを突く、打つ、蹴るなどの技であり、試合や乱取りでは禁止されているが、形の中で用いられる。急所について柔道では、当身の優れたテクニック同様、こういった攻撃されやすいところという認識は天神真楊流から伝えられてきたものである、とされる[8]。
[編集] 当所・急所
当所(用いる部位)
臂(うで):
- 指先当(ゆびさきあて):突出、両眼突
- 拳当(こぶしあて):斜当、横当、上当、突上、下突、後突、後隅突、突掛、横打、後打、打下
- 手刀当(てがたなあて、手掌の小指側縁):切下、斜打
- 肘当(ひじあて):後当
脚(あし):
- 膝頭当(ひざがしらあて):前当
- 蹠頭当(せきとうあて、足蹠の前端):斜蹴、前蹴、高蹴
- 踵当(かかとあて):後蹴、横蹴
※上記は嘉納治五郎『柔道教本』(1931年)の分類に拠る。
急所
天倒、霞、鳥兎、獨鈷、人中、三日月、松風、村雨、秘中、タン中、水月、雁下、明星、月影、電光、稲妻、臍下丹田、釣鐘(金的)、肘詰、伏兎、向骨。
当身技は形の中で教授されるが、現在では昇級・昇段審査においても行われる事が稀である為、柔道修行者でもその存在を知らない事も多く、また指導者も少ないのが現実である。
[編集] 精力善用国民体育の形
当身技は、昭和に入って「精力善用国民体育の形」(単独動作・相対動作)として制定されたが[要出典]、この形の制定理由について、嘉納治五郎は「私がこの国民体育を考察した理由は、一面に今日まで行われている柔道の形・乱取の欠陥を補おうとするにあるのだから、平素形・乱取を修行するものも、そこに留意してこの体育を研究もし、また実行もしなければならぬ」[9](1931年)と述べ、従来の講道館柔道の稽古大系に当身技が欠けていたのを補おう目的があったと述べている。また、この形に使用されている当身技、特に単独動作の当身技は、嘉納治五郎の唐手(現・空手)研究の成果によるものとの指摘がある[10]。
1922年(大正11年)5月、船越義珍が文部省主催の第一回体育展覧会に唐手を紹介するために上京してくると、同年6月、嘉納は船越を講道館に招待して、唐手演武を参観した。嘉納が唐手に興味をもったきっかけは、1908年(明治41年)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたときであったとされ、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視してゐた」という[11]。
また、1911年(明治44年)、沖縄県師範学校の唐手部の生徒6名が修学旅行で上京した際、嘉納治五郎に招かれて講道館で唐手の演武、形の解説、板割りなどを行った。このときも「柔道元祖嘉納先生をして嘆賞辟易せしめた」という[12]。これは船越が上京する11年前の出来事であった。また、嘉納が沖縄を訪問した際には、本部朝基を料理屋に招いて唐手について熱心に質問するなど[13]、唐手に対して並々ならぬ関心を抱いていた。
嘉納は、「乱取だけでは、当身の練習ができぬ」と述べ[9]、唐手にある当身技を研究して、その研究成果は精力善用国民体育の形としてまとめられた。[要出典]
精力善用国民体育の形には、単独動作と相対動作がある[14]。下記の形は1930年(昭和5年)発行の嘉納治五郎『精力善用国民体育』による分類であるが、時期によって分類の仕方に多少の差異がある[15]。
単独動作:
- 第一類:五方当(前斜当、横当、後当、前当、上当)、大五方当(大前斜当、大横当、大後当、大前当、大上当)、五方蹴(前蹴、後蹴、前斜(左右)蹴、前斜(左右)蹴、
高蹴)。
- 第二類:鏡磨、左右打、前後突、上突、大上突、左右交互下突、両手下突、斜上打、斜下打、大斜上打(甲乙)、後隅突、後打、後突前下突。
相対動作:
- 第一類:居取(両手取り、振り放し、逆手取り、突掛け、切掛け)、立合(突上げ、横打ち、後取り、斜突き、切下し)。
- 第二類:柔の形(突出、肩押、肩廻、切下し、片手捕、片手上、帯取、胸押、突上、両目突)。
[編集] 段級位制
講道館柔道では段級位制を採用している。これは、数字の大きい級位から始まり、上達につれて数字の小さな級位となり、初段の上はまた数字の大きな段位になってゆくものである。
段位制は囲碁、将棋において古くから行われていたが、それを最初に武道に導入したのは、嘉納治五郎の講道館柔道である。その後、大日本武徳会が、警視庁で導入されていた級位制を段位制と組み合わせて段級位制とし、柔道・剣道・弓道に導入した。
初段が黒帯というのは広く知られており、クロオビは英語圏でも通用する単語となっている。元々、柔道の帯は洗濯しないのが基本であり、稽古の年月を重ねるうちに黒くなっていく事から、黒帯が強さの象徴となったのであり、茶帯が白から黒に至る中途に設定されているのはこの残存形式であるとも言われる。
一般に最高段位は十段と思われがちだが、柔道の創始者である嘉納治五郎も『柔道概要』の中で「初段より昇段して十段に至り、なお進ましむるに足る実力ある者は十一段十二段と進ましむること際限あるなし」と述べている通り実際には上限は決められておらず、それ以上の昇段も可能になっている(ただし前例はない)。 また、段位は柔道の「強さ」のみで決まるものではなく、それぞれの段位に進む為の修業年限が規定されている。その為、オリンピック二連覇の谷亮子選手でも、段位は四段である。
なお、2006年現在までの講道館十段所有者は、山下義韶、磯貝一、永岡秀一、三船久蔵、飯塚国三郎、佐村嘉一郎、田畑昇太郎、岡野好太郎、正力松太郎、中野正三、栗原民雄、小谷澄之、醍醐敏郎、安部一郎、大沢慶己(昇段年順)の15人のみとなっている。また国際柔道連盟での十段所有者は、アントン・ヘーシンク(オランダ)、チャールズ・パーマー(イギリス)、ジョージ・カー(イギリス)の3人となっている。他にもフランス柔道連盟のアンリ・クルティーヌ、オランダ柔道連盟のnl:Jaap Nauwelaerts de Agéが十段位を取得している。 女子では十段は福田敬子(在アメリカ)ただ1人(2011年8月に昇段)で、それに続く八段所有者も二星温子(故人)と梅津勝子となっている。
どのように女の子スコープ外に昇級・昇段のためには全国の各団体が講道館の認可を受けて行う昇級試験・昇段試験を受験する必要がある。級においては試験は受験者同士の試合形式で行われ、結果が優秀であった場合は飛び級も認められる。初段以上では、試験は試合・柔道形の演武・筆記試験の3点の総合成績で判定を行うのが基本であるが、実施母体により異なる場合もある。(注下記)初段の試験に合格した時点で正式に講道館への入門を認められ、会員証が発行されると共に黒帯の着用が認められる。
成年部(原則13歳以上)の場合の帯と段級位の関係は以下のようになっている(四級以下については、道場によって違いもある)。
※六段以上は黒帯でも構わない。
少年部(原則13歳未満)の場合の帯と級位の関係は以下のようになっている。
- 初心者:白帯
- 五級:黄帯
- 四級:橙帯
- 三級:緑帯
- 二級:紫帯
- 一級:茶帯
また女子部は国内ルールでは1/5幅の白線入りだが、国際ルールでは男女とも同じものを用いる。なお日本国内の大会では、国際ルールを用いる試合であっても、女子は講道館の段位であるとして白線入り帯を締める事になっている。
[編集] 柔道競技
[編集] 試合
講道館柔道は形(かた)、乱取(らんどり)によって技術を修行するように示されている。しかし現代の競技大会における「柔道」とはほぼ乱取を意味するものであり、形については国民の認識も薄い。
このことから1990年代以降は「形」の競技化が進められ、次項にて説明する形競技も行われるようになった。
[編集] 形試合
形の競技化、試合も始まっている。ヨーロッパでは2005(平成17)年に欧州柔道連盟が第1回欧州柔道「形」選手権大会をロンドン郊外で開催した。さらに東南アジア地区のSEA (South East Asia) Gamesでは、2007年から投の形と柔の形が実施されている。
日本国内では、1997年(平成7年)には講道館と全柔連が全日本柔道形競技大会を開催したことで、形の競技化が始まった。10回(10年)の国内選手権大会を経てからは、形の国際大会開催の機運が高まり、第1回講道館柔道「形」国際大会が2007年に講道館大道場で開催された。ここでは五の形、古式の形を除く、5種類の形が採用されたが、すべて日本チームが優勝した。2008年11月には、国際柔道連盟がIJF形ワールドカップをパリで開催したが、投の形では優勝を逃している。
2009年10月には第1回世界形選手権大会がマルタで行われ、こちらは5種目とも日本勢が優勝した。第2回世界形選手権大会は2010年5月、ブダペストで行われ、日本チームは全5種類の形で優勝した。
[編集] 大会
[編集] 大会のレベル
講道館柔道の試合は、通常、年齢と体重によって制限されており、男女も別である。年齢には下記のように制限がある。
- マスターズ:30歳以上
- シニア
- ジュニア:15歳以上20歳未満
- ユース
- カデ:15〜16歳
[編集] 主な大会
[編集] 体重別階級
詳細は「オリンピック柔道競技#実施階級」を参照
柔道は本来無差別で争われるべきという考えに基づいていたため、講道館柔道では無差別を除くと段別・年齢別がその区分の中心であった。しかし、東京オリンピック開催を機に、体重による区分を軽量級、中量級、重量級の3階級設けたのが最初である。講道館柔道では現在8つの階級に分かれているが、主催者や競技者の年齢によって異なることがある。国際大会では、シニア、ジュニア、カデなどで制限が異なる。
- 1 シニア
男子 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
60 kg 以下 | 60〜66 kg | 66〜73 kg | 73〜81 kg | 81〜90 kg | 90〜100 kg | 100 kg 超 | 無差別級 |
女子 | |||||||
48 kg 以下 | 48〜52 kg | 52〜57 kg | 57〜63 kg | 63〜70 kg | 70〜78 kg | 78 kg 超 | 無差別級 |
- 2 世界ジュニア
年齢15歳以上20歳未満。
男子 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
55 kg 以下 | 55〜60 kg | 60〜66 kg | 66〜73 kg | 73〜81 kg | 81〜90 kg | 90〜100 kg | 100kg 超 |
女子 | |||||||
44 kg 以下 | 44〜48 kg | 48〜52 kg | 52〜57 kg | 57〜63 kg | 63〜70 kg | 70〜78 kg | 78kg超 |
- 3 世界カデ
年齢15歳〜16歳。
男子 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
50 kg 以下 | 50〜55 kg | 55〜60 kg | 60〜66 kg | 66〜73 kg | 73〜81 kg | 81〜90 kg | 90kg 超 |
女子 | |||||||
40 kg 以下 | 40〜44 kg | 44〜48 kg | 48〜52 kg | 52〜57 kg | 57〜63 kg | 63〜70 kg | 70kg超 |
無差別級は世界柔道選手権大会にはあるが、オリンピックの種目ではない。また日本で一番格式のある全日本柔道選手権大会は無差別級で行われる。
[編集] 国際大会の敗者復活トーナメント戦
また、オリンピックや世界柔道選手権大会では、敗者復活トーナメントも行われる。これは予選トーナメントで敗れた選手の中から、ベスト4の選手と直接対決した選手が出場できる。そして復活トーナメントを勝ち上がった選手と準決勝で負けた選手が銅メダルを争うことになる。このため銅メダルが必ず2つ出る。国際オリンピック委員会は他の競技との兼ね合いから1つにするように通達している[16]が、国際柔道連盟はこれを拒否している。
一方で国内の大会である、全日本柔道選手権大会や全日本選抜柔道体重別選手権大会では行われていない。
[編集] 柔道競技のルール
日本において、現在の試合ルールは講道館柔道試合審判規定(以降、講)と[国際柔道連盟試合審判規定(以降、国)がある。
[編集] 試合場
試合場内は、9.1m×9.1m(5間)(講1条)、もしくは8m×8mから10m×10m四方(国1条)の畳の上(「試合場」は、講14.55m(8間)、国14〜16m四方の場外を含めた場所をいう。)。試合は、試合場内で行われ、場外でかけた技は無効となる。場外に出たとは、立ち姿勢で片足でも、捨身では半身以上、寝技では両者の体全部が出た時をいう。ただし、技が継続している場合はこれにあたらない(講5条、国9条)。
[編集] 試合の技
講道館規定67種類、国際規定66種類の「投技」と29種類(講道館、国際共)の「固技」を使って、相手を制する事を競う。当て身技は使えない。
[編集] 審判員
審判員は主審1名、副審2名の3名が原則であるが、主審1、副審1、もしくは審判員1でも可能である(講17条、国5条は主審1、副審2の構成しか認めていない)。また、審判に抗議する事はできない(講16条)。
[編集] 試合
試合は立ち姿勢から始まる(講10条)。一本勝負であり(講9条)、「一本」の場合残り時間にかかわらずその時点で試合は終了する。2度の「技あり」、「技あり」と相手の反則「警告」(講)(3度の「指導」(国))を合わせた「総合勝ち」の場合も「一本」と同等に扱う。「技あり」2回の総合勝ちによる一本の場合は通常「合わせて一本」と主審がコールする。
試合時間内に両者とも「一本」に至らない場合には、それまでの技の優劣の差で「優勢勝ち」を決する。この優劣の差には「指導」による得点も加味される。規定時間終了時に両者の技に優劣の差がない場合には、ゴールデンスコア方式として、試合を延長し一方が有効な技を決めるか相手に宣告された反則(指導2回以上)による得点が入った時点で試合終了となる(ただし講、国ともに、ゴールデンスコア方式で行うとは明記されていない)。それでもなお時間切れになった場合は主審および副審の「判定」により「優勢勝ち」が告げられる。大会の規定によっては引き分けとする場合もある。
[編集] 試合時間
3分から20分の間で予め定められる(講12)。国体は成年男女、少年男女ともに4分。全日本選手権は6分。国際規定では、マスターズ3分(60歳以上は2分30秒)、シニア5分、ジュニア4分、カデ4分と決められている。「待て」から「始め」、「そのまま」から「よし」までの時間はこれに含まれない(講12条、国11条)。また、試合終了の合図と共にかけられた技は有効とし、「抑え込み」の宣告があれば、それが終了するまで時間を延長する(講14条、国14条)。規定時間終了時に両者の技に優劣の差がない場合には、試合時間が5分の場合は3分、試合時間が4分の場合は2分の延長戦をする(ゴールデンスコア方式)。
[編集] 技の判定
有効な技は、「一本」、「技あり」、「有効」の3つの判定で評価される。以前の国際規定では判定の種類に「効果」があったが、ルール改定により2009年1月1日から正式に廃止された。講道館規定ではもともと「効果」の判定はなかった。判定の優劣は「一本」に準ずる技の判定が「技あり」、「技あり」に準ずる技の判定が「有効」である。また、「技あり」2つで「一本」となるが、「有効」は何回とっても上位の「技あり」に及ばない。
[編集] 投技
- 一本:相手を制しながら、「背を大きく畳につくように」相当な「強さ」と「速さ」をもって投げた場合
- 技あり:相手を制しながら投げ、「一本」の要件「背を大きく畳につく」「強さ」「速さ」のどれか一つが部分的に欠けた場合
- 有効:相手を制しながら投げ、「一本」の要件「背を大きく畳につく」「強さ」「速さ」のどれか二つが部分的に欠けた場合
- 改正前の国際規定では、相手を制しながら、相手の片方の肩、尻、大腿部が畳につくように、「強さ」「速さ」をもって投げた場合を「効果」としていたが、改正後は得点とならない。
[編集] 固技
固技の勝ち方には次の3つがある(講37条、38条、39条)。(注:固技は抑込技、絞技、関節技の総称である)
インドの主要な山脈は何ですか1つ目は、抑込技で、国際審判規定では相手の背、両肩または片方の肩を畳につくように制し、相手の脚によって自分の身体、脚が挟まれていない場合で、25秒経過すると「一本」になる(講道館規定では30秒)。同様に一定時間の抑込で以下のように技が判定される。
- 一本:25秒間(講:30秒間)抑え込んだ場合。
- 技あり:20秒以上25秒未満(講:25秒以上30秒未満)、抑え込んだ場合。
- 有効:15秒以上20秒未満(講:20秒以上25秒未満)、抑え込んだ場合。
- 改正前の国際規定では10秒以上15秒未満抑え込んだ場合「効果」と判定されていたが、改正後は15秒未満の抑えこみは得点とならない。
2つ目は、固め技で、相手が「参った」と発声するか、その合図(相手の体もしくは畳を審判に分かるように2〜3回叩く)をすれば「一本」勝ちになる。
3つ目は、絞技と関節技で、技の効果が十分に現れた時である。
- 3つ目の条件には、脱臼、骨折、「落ちる」等がこれにあたる。
- 大会参加選手の程度によって、関節技や絞め技が完全に極まっていれば、安全の為、選手が「参った」をしなくても「一本」になる事がある。これを「見込み一本」という。これを採用するかどうかはその大会の前に決められる。
- 中学生以下は安全のため関節技・三角絞め禁止(講・少年規定による)。
- 小学生以下は安全のため絞め技・関節技禁止(同上)。
[編集] 禁止事項に対する罰則
禁止事項に抵触する行為に対しては、審判から「指導」が与えられる。重大な違反行為に対しては「反則負け」が宣告される場合もある。「指導」に対しては回数(国)または違反行為の重さ(講)に応じて、相手側に得点が与えられる。
- 「1回目の指導」(国)または「指導」(講)では、得点は与えられない。
- 「2回目の指導」(国)または「注意」(講)では、相手側に「有効」の得点が与えられる。
- 「3回目の指導」(国)または「警告」(講)では、相手側に「技あり」の得点が与えられる。
- 「4回目の指導」(国)または「反則負け」(国、講)では、相手側に「一本」の得点が与えられる。
- 改正前の国際規定では、「1回目の指導」に対して「効果」の得点が与えられていた。
[編集] 得点表示
得点表示の例(青(赤)が一本、白が技あり1回、有効1回の場合)
青 (B) /赤 (R) | 1 | 0 | 0 |
I | W | Y | |
---|---|---|---|
白 (W) | 1 | 1 |
試合場やテレビ中継での得点表示は、有効な技の回数が、左から、一本 (I)、技あり (W)、有効 (Y) の順に表示される。上下に列記される場合もある。
上記の例の場合、一見100点満点のようにも見えるが、希な例として有効の回数が2桁になる場合がありうるので、これを「100点」「11点」とは読まない。
[編集] 競技・規定の変遷
- 1900年(明治33年) - 講道館柔道乱捕試合審判規定制定。
- 1924年(大正13年) - 「引き込み」を禁止。
- 1929年(昭和4年) - 御大礼記念天覧武道大会柔道乱捕試合規定、審判員3人、姿勢・態度・技術等の基準による「優勢勝ち」制定。
- 1951年(昭和26年) - 講道館柔道試合審判規定改正。(新しい競技規定として試合場、柔道衣の規格規定)
- 1955年(昭和30年) - 講道館柔道試合審判規定改正、「技あり」後の「抑え込み」25秒で合わせ技一本等。
- 1957年(昭和32年) - 講道館柔道試合審判規定改正。「技あり」と「警告」による勝ちを「総合勝ち」とする。
- 1961年(昭和36年) - IJF体重別制。4階級。
- 1967年(昭和42年) - IJF試合審判規定が制定・IJF体重6階級。
- 1974年(昭和49年) - 国際規定改正に「有効」「効果」を採用。
- 1975年(昭和50年) - ウィーン世界選手権から「効果」を採用。
- 1977年(昭和52年) - IJF体重別制、8階級制。
- 1982年(昭和57年) - 講道館試合審判規定・少年規定。
- 1986年(昭和61年) - 第1回視覚障害者柔道大会開催(講道館)
- 1995年(平成7年) - IJF技名称発表(100本)
- 1997年(平成9年) - IJF総会でカラー柔道衣導入可決。
- 1997年(平成9年) - 講道館技名称発表(96本)
- 1998年(平成10年) - IJF技名称発表(99本)
- 1998年(平成10年) - 全国高校総体個人戦は体重別7階級になる。(於:高松)個人戦は予選リーグを廃止しトーナメントのみ。
- 1998年(平成10年) - 全国中学校大会の女子団体戦(3人制)始まる。
- 1998年(平成10年) - 全日本女子柔道ジュニア選手権大会始まる。(講道館)
- 1998年(平成10年) - IJF公式大会として初めてブルー柔道着採用される。ワールドカップ(ミンスク)
- 1999年(平成11年) - 全日本学生柔道体重別団体選手権大会開催。初の体重別団体戦開始。
- 2000年(平成12年) - 福岡国際女子柔道選手権大会で全柔連初の審判ビデオ試行。
- 2003年(平成15年) - 世界選手権大会の女子のシニア試合時間を5分に。国際規定の罰則を「指導」と「反則負け」に二分化。延長戦「ゴールデンスコア」採用。
- 2008年(平成20年) - 国際規定「効果」を廃止。(2009年1月実施)
- 2009年(平成21年) - IJFグランプリシリーズ及び世界ランキング制度が始まる
- 2009年(平成21年) - 第1回学生柔道女子選抜体重別団体優勝大会開催。
- 2009年(平成21年) - 嘉納治五郎杯国際柔道大会がIJFグランドスラム東京2009として開催。
- 2010年(平成22年) - 国際規定「抱きつき」を規制[17]。また、「双手刈(タックル)」・「朽木倒」等の脚を掴む技を制限(禁止ではない)[18]。
[編集] 公認審判員規定
柔道の公式試合は国内、IJFともに認定を受けた審判員が試合を司ることになっている。審判員は公認審判員規定によって資格が管理されている。国内の審判員はS,A,B,Cに分けられ、各審判員は研修会に参加して資格を維持している。国際はインターナショナル、コンチネンタルの2種類がある。
外部リンク
[編集] 柔道の派閥
東海大学・日本体育大学・国士舘大学・天理大学等をオピニオンリーダーとする全日本学生柔道連盟(学柔連)と講道館(東京教育大学(現筑波大学)等)の対立は政界をも巻き込み、1983年あたりから長く続いた。学士インテリ対町道場主&骨接ぎとも揶揄された。発端は正力杯国際柔道大会の運営に関する学柔連と全柔連のボタンの掛け違いといわれている。学柔連が全柔連を脱退するという事態から組織の分裂に問題が発展した。国際柔道連盟は当時松前重義東海大学総長が会長をつとめており、さらに学柔連側には山下泰裕ら主力選手が多くいた背景もあったので、全柔連も対応に苦しんだ。完全統一がなったのはニュージャパン柔道協会が講道館大阪支部となった1995年のときといわれている。
[編集] 高専柔道(七帝柔道)
詳細は「高専柔道」および「七帝柔道」を参照
七帝柔道(高専柔道)は立ち技重視の講道館柔道に反発して明治時代に誕生した柔道である。
七帝柔道(高専柔道)では寝技を重視したスタイルを採用しており、膠着時の「待て」や「場外」の要素や「有効」・「技あり」などのポイント制度を極力排除しているのが特徴である。試合においても団体戦による勝ち抜き戦を基本としており、試合時間も講道館柔道(国際柔道)のそれに比べて長い。選手は旧帝国大学およびその系列の者が多く、対抗戦のほかに柔術・総合格闘技などのバックボーンとして格闘技分野で主に活躍している。
今日では講道館柔道が国際柔道(Judo)としての地位を確立しており、またスタイルの違いや講道館が七帝柔道を異端視していることなどから、高専柔道(七帝柔道)の選手はオリンピックなどの国際競技柔道の大会に出場することは稀となっている。一方で、技術向上の目的で講道館柔道と高専柔道の練習を並行して行う修行者も多い。
[編集] 派生してできた武道、格闘技
柔道から派生した武道として、前田光世から受け継がれたブラジリアン柔術の各派や日本拳法がある。日本拳法は、柔道家の澤山宗海が柔道では廃れてゆく当身技の練習体系を確立する為に創始した。他には柔道出身の極真空手家・東孝が興した空道も投げや寝技の中に柔道の影響が強く見られる。
[編集] 柔道と空手道の道衣
柔道は当初柔術の稽古衣を着て稽古していたが、袖と裾の長い現在の柔道衣を作成し稽古するようになった。1922年、嘉納治五郎がプロデュースし、船越義珍に依頼して、講道館で空手(唐手)の演武、指導をした時に義珍が着用していたのが柔道衣である。その後、唐手と柔道は、動作も稽古内容も柔道とは違う為、柔道衣に徐々に改良がなされ、空手道に今のような空手道衣が誕生した。このように一般には別々と思われている柔道と空手道ではあるが、道衣において共通点が存在しているのは、そのためである(詳細は空手道#空手衣)。
柔道衣の色は基本的に白のみとされている。しかし、試合で両選手とも白の柔道衣では観客にとって見分けがつきにくいという問題があったため、1997年に国際柔道連盟はカラー柔道衣の導入を決定し、それ以来国際大会では青の柔道衣が使われるようになり、日本で開催する時も国際試合に限り青の柔道着を着用を認めている。これに対し、日本はカラー柔道衣の導入に反対しているため、国内大会では白の柔道衣のみが使われている。
カラー柔道着導入の検討段階では、赤・緑・黄などの様々な柔道着の着用を認めるようヨーロッパの柔道連盟など賛成の立場の国は迫った。最終的には見分けが付けばいいと言う事と、日本などの反対する立場の配慮から、青のみを採用することになった。
詳細は「カラー柔道着」を参照
[編集] プロ柔道によるブラジルでの異種格闘技戦
1951年、国際柔道協会(プロ柔道)の木村政彦七段、山口利夫六段、加藤幸夫五段の日本柔道使節がブラジルに招かれた。この時、グレイシー柔術と異種格闘技戦を行っている。
9月6日に加藤幸夫がリオデジャネイロでエリオ・グレイシーと対戦。試合は10分3ラウンド、投げによる一本勝ちはなし、ポイント制無しの柔術デスマッチルールで行われ引き分けに終わる。9月23日に二人は再戦したが、8分目で加藤が下からの十字絞めで絞め落とされエリオの一本勝ちに終わった。すでにこの頃からブラジリアン柔術の寝技技術はかなり高いレベルにあったものと思われる。
雪辱戦として10月23日に木村政彦がエリオ・グレイシーと対戦。だが、さすがのエリオも木村相手では子供扱いされた。木村が2R開始3分目で得意の腕緘に取りエリオは意識がなくなっていたため、兄のカルロスがストップを申し出し木村が勝利、日本柔道の名誉を守った。木村政彦は「鬼の木村」の異名を持ち、戦前から全日本選手権を13年連続保持、15年間無敗のまま引退した柔道家で、史上最強と言われる。木村は切れ味鋭い大外刈りで有名だが、寝技でも日本トップの力を持っていた。
この木村政彦とエリオ・グレイシー戦までの経緯、試合内容については「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が詳しく記述している。それによると、試合後は互いに2人が相手の強さと精神を称え合うものだったという。エリオは木村の強さに感動し、腕緘にキムラロックという名前をつけた。
[編集] 柔道事故
まず、柔道の投技の基本は受の背中が大きく畳に着くように投げることだが、取は受を頭から落さないように投げ、多くの投技では受の体が畳に着く寸前に引き手を引いて受の体をわずかに引かなければならず、受は正しい受身(腕で畳を打って緩衝し、同時に顎を引いて固定し後頭部を打たないように護る)を身に付けなければならない。
しかし、取と受の双方若しくはいづれか一方が未熟な場合、受が頭部を畳にぶつけることがある。例えば大外刈りは、受が後ろ倒しになるという技の性格上、まだ正しく受身を取れない段階の人(初心者)にかけると後頭部を強打する危険性が高い。また、頭からの落下による事故原因の他に加速損傷(回転加速度損傷)が原因と思われる可能性も示唆されており、これは頭部に外力(極端な遠心力、加速度)が加わることで頭蓋骨に回転加速度がつき頭蓋骨内の脳が全体的に回転(一方向への偏り)することで脳と硬膜を繋ぐ橋静脈が破断、急性硬膜下血腫に至るという機序である[19][20][21]。
[編集] 柔道事故の統計
死亡数の絶対値こそ水泳や陸上競技のほうが多いとの報告があるが(独立行政法人日本スポーツ振興センターが平成2年から21年までに、学校内で柔道の授業や部活動で死亡し見舞金を支給したのは74件。陸上競技275件、水泳103件)、2000年から2009年における中学生10万人当たりの平均死亡事例は柔道2.376人、2番目に高率なバスケットボールで0.371人であるとされ、学校における柔道の活動中の死亡事故発生率はバスケットや野球などのスポーツに比べて高いといえる。
学校での柔道の練習中に死亡する子どもの数は年平均4人以上というデータがあり、過去27年間で計110人の生徒が死亡、2009年から2010年にかけては計13人の死亡事故が確認されている[22]。名古屋大学内田良准教授の調査では1983年から2010年の28年間に全国で114人が死亡、内訳は中学39人、高校75人で中高ともに1年生が半数以上を占め、14人が授業中での死亡とされる。後遺症が残る障害事故は1983年から2009年にかけて275件で、内3割は授業中での事故との調査報告が出ている[23][24]。
[編集] 柔道事故と民事訴訟
柔道の事故に関して全国柔道事故被害者の会が存在する。部活動後や帰宅時に容態が急変した場合、回転加速度損傷は外傷が殆ど無い為に柔道事故と死亡の因果関係の立証が困難になる[25]。
[編集] 柔道事故対策
柔道事故に対して(財)全日本柔道連盟は安全指導プロジェクト特別委員会を設け、事故予防や事故時の対応などを指導者に啓発してる[26]。同財団では柔道事故による見舞金制度が設けられており死亡または1級から3級の後遺障害に見舞金200万円、障害補償として2000万円が支払われる。
「ゴング格闘技」は2010年6月の七帝柔道大会の試合後に松原隆一郎(東大教授)と増田俊也(作家)を招き、全柔連ドクターと京大柔道部OBの医師を交えた4人による緊急鼎談を行い、「未然に事故を防げるように柔道界で一致団結して前向きに対策を練っていこう」という話にまとまった。京大OBからは、寝技中心の七帝柔道らしく「中学生はまだ体ができていないので、授業ではまず寝技だけを教えて、危険な立技は体ができてから教えても遅くないのではないか」との意見が出ている。ただし、高校2年生が寝技の基礎練習中に頸椎を損傷して首から下が不随の状態になっている事例もある[27]。
[編集] 柔道事故とNHK番組
「頭をぶつけると起きるから、頭をぶつけないようにすれば大丈夫」などと思っている指導者が多いが、その考え方は甘い[28]。たしかに頭をぶつけた場合も危険であるが、頭をぶつけていなくても頭に強い加速度が加わるだけでも頭蓋内出血が起き命にかかわることがある[28]。
日本の文部省の対応は非常にずさんで誠意の無いものであり、日本国政府(文部省の公務員たち)は、柔道が原因となった加速損傷で死亡事後が起きるという事実をを30年前に把握していたにもかかわらず、そうした事実を隠蔽し、指導現場へ伝えることが無かった。[28]。
日本国政府(文部省)は30年前に学校での柔道の指導中に起きた死亡事故で被害者家族から訴訟を起こされ、家族が「頭をうったと思われる」としたところ、文部省側は無罪を主張するために「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」ということを主張するために、わざわざ英語で書かれた論文を持ち出して自己弁護したにもかかわらず、自らの弁護のために持ち出した「頭を打っていなくても、加速損傷で脳が損傷をうけることがある」という事実に基づいて対応策を打てば状況を改善できたはずであるにもかかわらず、その事実を全国の学校現場に伝える努力をまったくせず、結果としてその後に日本で100人以上の若者が命を落とすような状況を作り出していたのである[28]。
おまけに文部省は、「学校での柔道の指導中の事故を文部省に報告する必要はない」などとする(不適切な)きまりを数十年前につくってしまい、文部省に事故情報が集まってこない体制にしてしまった[28]。これによって、ますます危険が把握されず放置される状況が作り出された[28]。
こうした危険な状態が放置・隠蔽されていた実態が、中学校での武道必修化(結果として柔道必修化を選ぶ学校が多いと予測される)を目前とした2011年になって、明らかにする人が出て、問題として浮上してきた[28]。
全国の体育教師のほとんどは、自身が柔道をしたこともない状態なのに、そうした体育教師に柔道の指導をさせるつもりで、体育教師に対して最低限の研修(柔道着の着方、帯のしめかた、受身のとりかた)を急遽行っているようなありさまである[28]。指導者としてのレベルには全然達していない[28]。上述のような、高い死亡率、障害者率の実態がこの数年で急に明らかになったわけであり、このままの指導現場のありかたで武道必修化(柔道必修化)を実施し柔道を行う生徒が急増すると必然的に死亡者や障害を負う生徒(被害者)が急増することが、当然予測される[28][29]。にもかかわらず文部省の役人は「4月の柔道必修化は予定どおり実施する」というかたくなな態度を変えていない[28]。
(フランスは現在では、日本の3倍の柔道人口を持つ柔道大国である)、フランスではかつて起きた1名の死亡事故をきっかけとして、安全対策として、(競技者としてではなく)生徒に安全に柔道を指導するための国家資格を設立、救急救命などや生理学やスポーツ心理学なども含めて300時間以上の学習・訓練を経なければ、決して柔道の指導はできないようにし[28]、例えばたとえ競技者として優秀でも受身の安全な指導ができなければ絶対に生徒の指導はできない、というきまりにした[28]。そうしたフランス政府の誠意ある姿勢と日本の文部省のずさんな態度は、非常に対照的で逆方向である[28]。
日本柔道連盟でも、連盟内に医師グループはいたものの、その中に頭を専門とする脳神経外科医がおらず、柔道事故の内実をよく理解していなかった[28]。
二村雄次(日本柔道連盟所属の医師、自身も講道館柔道6段)は、NHKのクローズアップ現代(2012年2月6日放送)で、武道必修化(柔道必修化)の前に、第三者による柔道事故検証のしくみ(システム)を事前に用意しておくべきで、そうすればもしも柔道指導中の事故が起きた場合は(文部省の不誠実な公務員でもなく、事故を起こしてしまってから責任を回避しようとする現場の体育教師や校長などでもなく)第三者によって事故の実態を解明・分析し、そうすることで柔道事故の実態を解明し情報を蓄積すれば事故の防止策も打つことができる、と指摘した[28]。
2012年、文部科学省の外郭団体日本スポーツ振興センター名古屋支所が、同競技機関誌で掲載予定していた柔道の部活動や授業中の死亡事故への注意を呼びかける特集記事について、「中学の武道必修化が始まる前の掲載は慎重にすべきだ」という本部からの指摘を受けて不本意ながら掲載を見送った[30]。
[編集] 外部リンク
[編集] 参考文献
- 小俣幸嗣、尾形敬史、松井勲著、竹内善徳監修『詳解 柔道のルールと審判法』大修館書店 ISBN 4-469-26423-7
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